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2006年5月31日 (水)

キッズリターン~青春の日々~

今日の昼、大阪の難波にあるナンバハッチなる所をフラッと訪れてみました。

普段は音楽のライブで賑わう所で、平日の昼ともなると閑散としたもんですが、実はライブも含めて訪れたことは無かったのでリサーチがてら行ってみたのです。

するとどこからともなく、若い女の子二人の話し声が聞こえてきました。

しかも、普通の話し声というより、ちょっと声の張った話し声。

辺りを見回してみると、路上で壁に向かって、『漫才の練習』をしている女の子を見かけました。しかも3組ほど。

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さすが『サッカー王国』ならぬ『お笑い王国』(^0^;

確かに、大阪は僕らの世代でも小さな頃からお笑いが大好きで、『吉本新喜劇』と『松竹新喜劇』に育てられたようなもんですが、高校生ぐらいの女の子でも漫才するんですねえ…

昔、仕事で地方に行っても、大阪の人間が二人いれば漫才になるって言われるぐらい、大阪では普通の会話の中で『ボケ』と『ツッコミ』が入ってくる文化で育ってますけど、今や普通の女子高生でも漫才の練習するんですねえ…びっくり。

でも、その横で同じく男の高校生何人かが菓子食いながら、地べたに座ってるのは、なんか滑稽でしたけど…

いずれにせよ、漫才でも、音楽でも、スポーツでも、勉強でも何でも好きなことがあるのはエエコトです。

そこで失敗しても、後で考えれば大したことないんですから。

若い時はなんぼでもトライして失敗したらいいんです。

(なんてスッカリおっさんの口調ですネ)

Photo_19 ところで、北野 武監督作品の『キッズリターン』って観たことあるでしょうか?

今から10年前の1996年の作品で、北野監督がバイクの事故で瀕死の重傷を負った後に作った最初の映画です。

この映画に関しては、故淀川 長治さんも北野監督のセンスを絶賛しておられましたけど、僕もこの作品を観て、北野監督の映画に対する印象がガラっと変わった作品です。

北野監督の作品と言うと、どうしても初期の頃のバイオレンスのイメージが強すぎて、『あの夏 一番静かな海』以外は、ロクに観てもしてないくせに、ちょっとアクが強いなあと思ってたんですけど、この映画を観て一気に好きになってしまいました。

実際、この映画を観た後、あの傑作『HANA-BI』を劇場で観て感激し、それから後は初期の作品も観始めて、今ではスッカリ北野監督の大ファンになってしまいました(^_^;

この映画は、特に何の目標も無く、問題ばかりを起こして過ごしていた二人の高校生マサルとシンジがボクシングと出会ってから、一人はボクサーの道へ、もう一人はヤクザの道へと進んでいき、喜び傷つきながら、最後には元へ戻ってくる。

映画の最後のシーンで、シンジがマサルに『俺たち終わっちゃったのかな?』と問いかけると『バカやろう。これからじゃねえか!』って答えるシーンは印象的です。

この映画は先ほど閉幕したカンヌ映画祭にも監督週間に出品されていたようですが、後のベネチア映画祭でのグランプリを予感させる作品です。

初期の頃の作品に比べると、余計な力が抜けていて、本当に自然体の演出。

まだ北野監督の映画を観たことの無い方は、ちょっとしたオススメですヨ。

この映画や『あの夏 一番静かな海』を観ていると、北野監督という人の繊細さを感じさせてくれます。

最後に、ここでは作品の紹介が出来ませんでしたが、昨日亡くなられた今村昌平監督のご冥福をお祈りします。

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2006年5月28日 (日)

運命を分けたザイル~その時あなたならどうします?~

昨日、『運命を分けたザイル』という映画をDVDで観ました。Photo_18

2003年のイギリス映画。

監督はケビン・マクドナルドという人ですが、原作・脚本はジョー・シンプソンという実際の登山家で、映画の中にも実名で登場します。

この映画は、実際にジョー・シンプソンが体験した遭難事故を題材にして、再現ドラマをドキュメンタリータッチで描いている作品です。

今から20年ほど前の1985年、ジョー・シンプソンと友人のサイモン・イエーツは南米のアンデス山脈の難関と言われる標高6600メートルのシウラ・グランデ峰という山に登山を試みます。

当時は若く野心的な登山家であった二人は、途中にキャンプ地も作らずに二人だけで一気に登頂を試みます。

当時の二人は慎重という言葉からは程遠く、単に『日常のマンネリ』の中から抜け出し、スリルを求めていたのです。

思った以上に険しい地形に苦しみながらも、なんとか登頂に成功する二人。

しかし、本当の苦しみはそこから先にあったのです。

映画の中でも、『遭難の80%は下山途中に起こる』と言われていた通り、険しい地形を下るだけでも大変な上に、天候も荒れ始め、やがて二人は下山ルートを見失ってしまいます。

しかも、雪を溶かして水を確保するための、ガスも無くなってしまいます。

下山を急ぐ二人でしたが、とうとう悲劇が二人を襲います。

絶壁のような斜面を下るときに、フトしたことでジョーが斜面を滑り落ちてしまい、しかも片足を骨折。荒れる天候の中で、相棒の一人が骨折をしてしまうことは、下手をすると二人ともが命を失うことを意味します。

しかし、サイモンはザイルの半分の長さをうまく使ってジョーの体を先に下ろして、次に自分が降りるという方法を考え出し、なんとかその場を凌ぐのですが、何度目かの下山中に再び悲劇が起こるのです。

山の斜面が急に絶壁のような状態に変わったことで、先に滑り降りていたジョーの身体は宙吊りの状態になってしまいます。

吹雪の中、ジョーの身体をザイルで支えるサイモンには、その状況が分かりません。

ジョーも必死で状況を打開しようとしますが、腕も満足に動かず、宙吊りになった状態から抜け出せません。

刻々と時間が過ぎていき、ザイルでジョーの身体を支えているサイモンも限界に達し始めます。

このままでは二人とも死んでしまうしかない、そんな状況でサイモンは決断を迫られます。

『ザイルを切る』かどうか?

そして、サイモンは意を決し、ザイルを切り、ジョーの身体はクレパスの中に落ちてしまうのです…。

実際に起こった出来事をドキュメンタリータッチで再現していることもあり、その映像もスゴクリアルで、観ている自分も雪山で遭難しているような気分になります。

この映画は、雪山で遭難した当事者が脚本も手がけていることもあり、非常に細かい点までリアルなのですが、ドキュメンタリーで描いていて、実際に遭難した人間が映画の中で語っているのですから、無事生還したことは分かっているのですが、それでも『もうダメやろう』というような絶望的な状況に何度も追い込まれます。

この映画のジョーやサイモンも、実際に遭難に出会うまではそうであったように、普段なんでもない生活を過ごしていると『生命』というものを感じることはあまりありませんが、この映画のように絶望的な状況に身を置いたとき、『いかに自分という存在がちっぽけで孤独なのか?』ということを思い知らされると同時に、『絶望』という意味も知るのかもしれません。

ジョーが何故生還出来たのか?

それは奇蹟といえば、奇蹟でしょう。

ジョーの身体がクレパスに落ちたときに、ほんの数十センチ横にずれていれば、命はその段階で無かったでしょうし、先に下山していたサイモンが、もう数日早くキャンプ地を離れていたら、ジョーは見つかることは無かったでしょうから。

でも、奇蹟という一言では片付けられない面も数多くあります。

確かに偶然に助けられたといえる面も少なくありませんが、その偶然を生かすことが出来たのは、ジョーが何度も絶望的な状況に追い込まれても、あきらめず打開策を探し出したからなのでしょう。

こんな風に書くと、ジョーが冷静に危機を乗り越えていたように思えるかもしれませんが、この映画の中でジョー自身が語っているように、実際にはそうではありませんでした。

登山家としては情けないぐらい、自分を見失い、パニック状態にも陥ります。

何度も絶望的な気持ちになりながらも、あきらめずになんとか次の道を探し出すジョー。

それは、登山という世界だけでなく、私たちの人生においてもいえることかもしれんなあと思いました。

サイモンが自分が生き延びるために、ジョーのザイルを切ろうとした決断、絶望的な状況に何度も追い込まれながらも、生きるために決断を下し行動していくジョー。

そんな二人の姿を見ていると、『生きることの難しさ』をつくづく思い知らされます。

僕なんか、この二人ほどの経験をしたことは幸いありませんが、一度会社を辞めて次の仕事を探しているときなんかは、本当にこんな気持ちでした。

自分が選んだ道とはいえ、実際に歩き始めると、いかにその道が険しい道であるかを知り、真っ暗な闇の中を一人で歩くような孤独感との戦い。

ちょっと大げさですが、仕事が決まらない時は、このまま社会から消え去ってしまう…と思ったぐらいでした。

人間には希望が必要ですが、それには絶望もつきまといます。

何度も絶望的な気持ちになりながらも、どこかに希望の光を見つけて次の道を探し続ける…だからジョーは生還できたんでしょうし、それが人生というものなのかもしれません。

大事なのは絶望的な状況と思っても、あきらめず次につながる決断をする勇気と行動なんでしょう。難しいことですけど、あきらめたら終わりですから。

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2006年5月27日 (土)

ワールドカップ本番に向けて~ベルンの奇蹟~

いよいよ、スポーツ界のビッグイベント サッカーワールドカップまで2週間を切りました。

我が日本代表も3回連続出場ということで、ドイツのボンで合宿を始めていますが、今回の開催国ドイツはワールドカップの出場が旧西ドイツ時代も含めて14大会連続出場で3回の優勝を誇る強豪国です。

今回は、ちょっと優勝には悲観的な意見が多いものの、前回大会でも決して下馬評は高くない中、決勝まで上がってきたぐらいですから今回も地元の応援をバックに優勝を狙うチャンスは大いにあります。

今ではブラジルやアルゼンチン、イタリアと並ぶ強豪国の一つとして挙げられるドイツですが、戦後間もない時期においては決してそのようなことはありませんでした。

ドイツが初めて優勝したのは、旧西ドイツ時代の1954年のスイス大会でしたが、これは今でもドイツ国民なら誰しも覚えている一大事件だったようです。

Photo_17 『ベルンの奇蹟』という2003年製作のドイツ映画は、ワールドカップスイス大会で西ドイツが優勝するまでを、ある一家の少年の目を通して描いた映画です。

製作、脚本、監督はゼーンケ・ヴォルトマンという元プロのサッカー選手で、ちょっと異色の監督です。

元西ドイツのプロサッカー選手ということだけあって、サッカーのシーンもリアルなんですが、この映画は別にサッカー好きでない人でも一度観てほしい作品です。

1954年といえば、西ドイツも日本同様に敗戦から立ち直ろうと必死にみんなが生きている時代です。

当時の日本もそうであったように、まだ敗戦の傷から立ち直りきっているわけではなく、特にドイツは東西のドイツに分裂している状態でもありました。

舞台はドイツの工業地帯のエッセン。

サッカーが大好きな少年マチアスの一家は、母親が居酒屋を営業し、兄と姉の4人で暮らしています。父親が戦争で死んだのかさえも分からない中、決して豊かではないものの家族4人で力をあわせて生活をしています。

マチアスは毎日草サッカーに明け暮れる中、地元のサッカー選手であり、代表選手でもある『ヘルムート・ラーン』のカバン持ち(?)をしながら、ラーンにまだ会ったことの無い父親の面影を重ねているようなサッカー漬けの日々を送っています。

そんな中、父親が無事帰ってくるという報せが一家に入ります。

でも、どこか複雑な表情を浮かべる子供たち。

父親が戻り、本来なら楽しいはずの食卓もどこか重苦しい空気。

厳格な父親は、妻の居酒屋も止めさせ、再び自分が一家の大黒柱として働こうとしますが、ソ連の収容所生活で長く抑留されていたために、再び炭鉱で仕事を始めようとしても、抑留中の悪夢が蘇り仕事をすることも出来ず、当てにしていた年金も、抑留生活中に飢えでやむを得ず起こした事件を理由にもらえません。

なんとかして父親としての威厳を保とうとしながらも、社会復帰出来ず、かえって家族との間の溝も深まっていくばかりです。

一方で、西ドイツの代表チームもワールドカップに出場したものの、1次リーグで当時の優勝国ハンガリーに8-3という屈辱的な大敗を喫し、マチアスが大好きなヘルムート・ラーンもなかなか試合に出してもらえません。

追い込まれた西ドイツは、ラーンを先発で起用し始めてから次第に力を発揮し始め勝ち進んでいきますが、マチアス一家の絆は崩壊し、ついに長男が家を出て行ってしまいます。

この映画は、マチアスという少年を軸に、父親、一人のサッカー選手(ヘルムート・ラーン)、西ドイツ代表チーム、そしてドイツ国民がワールドカップを通じて戦争によって失った自信や人間性を取り戻していき、国民が一つになっていく姿を描いています。

たかが、スポーツイベントですが、そこには数多くの人の想いが込められているんだなあと思わせてくれます。

今回のワールドカップドイツ大会でも、国内の紛争が絶えない初出場国のアンゴラ、91年に国が分裂した後、多くの苦難を味わってきたクロアチアとセルビア・モンテネグロといった国々も参加します。

単なるスポーツイベントとしてではなく、文字通り『国の名誉』を賭けて参加する国々がどんなドラマを起こしてくれるのか、今から楽しみですね。

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2006年5月21日 (日)

子供にとっての親の人生~初恋のきた道~

いきなりですが、チャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』をご存知ですか?Photo_16

1999年制作の中国・アメリカ映画で、初々しいチャン・ツィーが出演しています。

この映画の邦題もそうですが、一般的なイメージとしては、田舎の村を舞台にした学校の教師と、その教師に食べ物を届ける少女の純愛ストーリーとして受け取られているのではないでしょうか?

中国語のタイトルを見てみると『我的父親母親』となっていて、意味は分かりませんが、単なる純愛映画というより、『子供の視線から見た両親』というのが鍵になっているように思います。

冒頭のシーンで、息子が父親の葬儀のために息子が都会から帰ってくると、母親が父親の葬儀のためだといって、昔ながらの葬儀のやり方にこだわったり、老いた身体で懸命に葬儀のための布を織っているところが映ります。

息子は、その母親の姿に困惑してしまいます。

映画を観ている私たちも、息子同様に、なんて頑固なお母さんなんだろうと思ってしまいますが、映画を観ていくうちに、その年老いた母親にも青春時代があり、恋をし、辛い別れの時があり、様々な経験をしてきたことが分かっていくと同時に、年老いた母親がどうしてあれほど葬儀のやり方にこだわり、懸命に布を織っていたのか?ということが分かり始めます。

私自身も、それなりの年になってきて、最近思うんです。

『自分はどれだけ親のことを分かってるんだろう?』って。

当たり前ですが子供にとって、親は最初から親なので、一人の人間として見るということが意外と出来てないし、意外と親のことを知らないような気がします。

特に、父親と息子の関係となると、本当に知らないし、知ろうとも思わなかった。

でも、自分自身が年を重ねるのと同時に、自分の両親も次第に年老いていき、かつての自分のイメージと異なる部分が見え始めてくると、悲しかったり、せつなく感じてしまう。

例えば、自分の母親や父親の顔って意外とちゃんと見てない。

当然見てはしてるけど、自分のイメージで認識してるところがあるのと、普段はロクに顔を見て話をしてないからなんでしょうが、ちょっとしたときに両親の顔を見て、『えっ!』と思ってしまう。

年齢を考えれば、当たり前ではあるんですが、自分の親がおじいちゃん、おばあちゃんになっているのに気づき、同時に、今までそれに気づかなかった自分を知り愕然とする。

えてして一番身近にいる人間のことを一番知らなかったりするものなのかもしれませんが、これから残された時間の中では、少しでもお互いを知る機会を増やすことが出来ればと思ったりします…

両親にも、それぞれの人生があり、青春時代があったこと。

単なる自分たち子供を育てるための役割を演じている人ではないこと。

多くの喜びや悲しみ、苦しみがあって二人が出会ったこと。

そして今の自分がいること。

そういったことに思いをはせながら、両親と接することが出来れば、今までとは違う何かを両親も私も得ることが出来るのかもしれません。

チャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』は恋愛映画としても大好きな映画ですが、親と子の人生を考えさせてくれる映画でもあります。

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2006年5月20日 (土)

子供は私たち社会の鏡であり、未来~禁じられた遊び~

昨日、仕事で電車に乗ってると、大阪城公園に遠足に行く途中なのか、3組も幼稚園児や小学生たちのグループを見かけました。

昼間の地下鉄とはいえ、電車の中は大賑わいで、少々周りの大人たちは困惑ぎみ。(かく言う私も含めて)

別に子供嫌いではないし、好きなほうだと思うんですが、正直、電車乗るときに子供が大勢いるのを見ると『・・・』って気持ちになって、車両を変えようかと思ってしまうんですよね。

昨日も多少そんな気持ちをもちながら、電車に乗ってたんですが、しかし元気です。子供は。

そうじゃなくては困るけど、ホンマに元気。

じっとしてないもん。

少々先生に注意されたって全然気にしてないし。

子供はそれぐらいがいいと思うけど、先生は大変です。電車の中では騒ぐし、目的の駅では降ろさなアカンし、横で見てて思ったんですが、自分やったら一人ぐらいおらへんようになってても分からんのと違うかな?と…

子供なんて自分のやりたい放題で動くから、何するか分からんし、ましてや怪我でもしようもんなら大変。いまどきの父兄やったら裁判沙汰で騒ぎだすかもしれませんもんね。

自分が子供で遠足に行ってるときは、なんとも思いませんでしたが、いざ大人になって、先生の立場を考えるとホントに大変。

学校や幼稚園の先生は、ホンマご苦労様です。

でも、その一方で気になるのが、ホントに子供が事件に巻き込まれるのが増えてきたような気がすること。

以前に岐阜の中学生の事件をちょっと触れましたけど、本当に子供が事件に巻き込まれるのが多くなってきた気がします。

子供はいつの時代でも、どこの国でも、そのときの社会の影響を真っ先に受けますが、不気味なのが表面的には今の日本社会は世界でも類をみないほど豊かな社会なのに、子供が巻き込まれる事件が増えていること。

北朝鮮やアフリカの国々のように飢餓に苦しんでいるわけでもない。

イラクのように戦争に巻き込まれているわけでもない。

ましてや最近では、景気回復が叫ばれ、高額な商品がドンドン売れて、高層マンションがドンドン建っていく…

でも、相変わらず自殺者は減らず、子供が巻き込まれる事件も増えてるような気配。

これって何を意味してるんでしょう?

『禁じられた遊び』という映画はご存知でしょうか?Photo_15

タイトルは有名ですし、特にこの映画で使われている音楽は一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?

1952年制作のフランス映画。

監督はルネ・クレマン。

原作はフランソワ・ポワイエの『木の十字架、鉄の十字架』で、南仏の田舎町を舞台にした反戦映画です。

物語の冒頭のシーンでは、ドイツの侵攻から逃れるためにフランスの田舎町を大勢の人が避難していく姿が映し出されます。

と、突然そこにドイツの戦闘機が現れ、またたく間に大勢の人が犠牲になってしまいます。

物語の主人公である少女も、そんな避難民の一人で、このドイツ軍の襲撃で少女の両親、そして彼女が大切にしていた犬もあっけなく殺されてしまいます。

ここでショッキングなのが、自分をかばって死んでしまった両親を置いて、可愛がっていた子犬の死体を抱えて道をさまよう少女の姿。

やがて、ミシェルという村の少年と出会い、その家族と一緒に暮らし始めるのですが、少女はミシェルにあるお願いをします。

それは死んだ子犬のお墓を作ること。

少女にほのかな想いを寄せる少年は少女の願いどおり、子犬の墓を作ってやりますが、やがて他の動物や虫たちのお墓も作り始めることになり、次第に『危険な遊び』へと進んでいきます…

この映画には冒頭のシーン以外は一切、戦闘シーンが出てきませんが、少年と少女の姿を通じて、戦争の恐ろしさ、それを引き起こした大人の愚かさを映し出しています。

二人の子供が虫や動物たちのお墓を作ることに夢中になっていく中で、十字架まで盗み始める行動は、裏を返せば、戦争という愚かな行為の中で自分を見失っている大人の姿を表しています。

映画の最後のシーンで、孤児院に連れて行かれた少女が、映画の中ではじめて『ママ、ママ…』と言いながら、街をさまよい歩く姿が印象的です。

子供は私たちが必ず経験してきた姿であると同時に、私たちの未来でもあり、そして今の私たちの姿を映し出す鏡でもあるのかもしれません。

私たちも自分たちが知らないうちに『危険な遊び』を始めているのかも?

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2006年5月11日 (木)

UFOは存在せず!?~未知との遭遇~

先日の日経新聞で、こんな記事を見かけました。

UFOは存在せず 英国防省が報告書

記事によると、今から4年前の2000年に英国の国防省が400ページに及ぶUFOに関する報告を作成し、その報告書の中で『UFOは存在しない』と報告していたそうです。

この報告書の存在が今なぜ分かったかというと、機密指定が解除され、情報公開法に基づき国防省のUFO関連資料を請求していた大学研究者の要求に応じて公開されたとのこと。

どうして存在しないのか?ということまでは、日経新聞の記事では分かりませんが、同報告書は今月の15日から英国防省のHPで公開されるそうです。

一度チェックしてみても面白いかもしれません。(もちろん辞書を片手に^_^;)

でも、なんかうさん臭いなあ…

個々の事例を否定することは出来たとしても、それをもって『存在しない』って、どうやって証明するんかなあ?400件近い事例をチェックしたみたいやから、統計論的に証明するんかなあ?

僕の性格も関係するんでしょうけど、『存在しない』っていう報告書を作られたら逆に疑ってしまいますわ(^_^)

よく吉本新喜劇なんかで、『ここには絶対隠れてない』と、隠れてる場所の前で言うギャグあるでしょ?なんか、あんな感じ。

UFOに関しての話をしだすと、これまたいろんな話が出てきそうですけど、この記事を見て宇宙人やUFOに関する映画を色々思い浮かべてみたんですが、その中の一つでちょっと触れてみようかなと思ったのが…

『未知との遭遇』

Photo_14 結構、名前は知られてる作品ですし、観た人も多いのでは?

1977年制作のアメリカ映画で、監督・脚本はあのスティーブン・スピルバーグ。

出演はリチャード・ドレイファス、メリンダ・ディロン、ちょっと変わりダネではフランソワ・トリュフォー。

僕がまだ小学生の頃の映画でしたけど、これは当時もムッチャ話題でした。子供心に、あのなんともいえないタイトルとポスターの不思議さに惹かれて、本も買って読んだ気がします。

未知との遭遇の原題は、CLOSE ENCOUNTERS OF THE THIRD KINDとあるように第3種接近遭遇。

つまり、この映画の中で第一種接近遭遇から始まって、ついには宇宙人に遭遇する第三種接近遭遇を描いてるんですけど、露骨に宇宙人を表現してないのもリアリティーがあったし、それまでの単純な宇宙人映画でなくて斬新でしたよね。

この当時スピルバーグ監督は、まだ31歳!!

ホンマ早熟の天才やわ。

この映画は、印象的なカット(UFOを目撃した男が脳裏に焼き付けられた’山’や宇宙船が登場する幻想的なシーンなど)や、宇宙人と人間が交信をするのに音楽を使っていたり、宇宙人を悪者ではなく友好的な存在として描いているのも面白かったですねえ。

また観てみたいなあと思う作品です。

話は元に戻りますけど、結局、UFOが存在するとかしないとかなんて答の出せるもんでもないでしょうし、出すことに意味があるのかなあとも思ってしまいます。

そんなことより、こんなに広い宇宙の中で存在している地球や生命という神秘を素直な目で見てみれば、宇宙人がいても不思議じゃないやんって思うほうが自然な感じ。

だって、宇宙ってホンマ広いというか、その大きさも想像の範囲を超えてるし、まだ膨張してるっていうんやから、ワケ分かりませんワ。所詮、人間の頭の中で考えれる範囲を超えてる感じですもん。

ちなみに、僕はUFOを見た事ないんですけど、十代の頃に一度ムッチャリアルなUFOの夢を見たことがあって、あまりにリアルに感じたから、『ひょっとしてさらわれたのかな?』と思ったほどでした(^0^;

宇宙人にさらわれるのはイヤですが、なんかたまには空を眺めながら宇宙のことを考えるのもいいかもしれませんね。

たまにツライことがあったときや、なんか答が欲しいときに空を見上げることあるんですけど、あれって何なんでしょう?実は、宇宙から信号が送られてたりして…(^0^;

まあ英国の国防省の報告書は、それはそれとして、これを機会にちょっと空を眺めてみましょか?

ひょっとしたらUFOを見つけるかも?

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2006年5月10日 (水)

世界の祭典まであと1ヶ月~映画のお話ではないのですが~

世界の祭典…

というと何を思い浮かべるでしょうか?

日本人の多くの人は、やはり夏のオリンピックを思い浮かべるのではないでしょうか?

私も子供の頃はそうでした。

あるスポーツの存在を知るまでは…

そう、それは『サッカー』のワールドカップ。

今では、日本代表も3回連続出場ということで、日本の多くの人もサッカーのワールドカップの存在を知らない人のほうが少ないでしょうが、この大会は本当にバケモノのような大会なのです。

今年の3月には野球のWBC(ワールドベースボールクラシック…略すると、どうもプロレスかなんかの団体のように聞こえてしまうのは私だけ?)が初めて行われ、メデタク我が日本代表が優勝しましたが、サッカーのワールドカップは1930年が第1回開催ということですから、70年以上の歴史があるわけです。

FIFA(国際サッカー連盟)のワールドカップ公式HPによると、前々回のフランス大会の観戦者数はのべ370億人(!?)、決勝の観戦者数は13億人というんですから、ほとんど世界中の人が観ているということになりますよね!スゴイ!

実際、大会期間中は政財界のVIPも自国の勝敗が気になって仕事にならないことも多く、特にヨーロッパや南米といった国では大統領や首相でも、試合中は仕事をほとんどしないぐらい…というより仕事が手につかないらしいです。

と、なんでまた急にサッカーのワールドカップの話を切り出したかというと、もちろん6月9日の開幕まで1ヶ月になったこともあるんですが、今日は大阪の長居スタジアムで行われた『日本代表VSブルガリア代表』の試合を観てきたからなんです(^0^;

Blog_008 ブルガリア代表は残念ながら、今回のワールドカップには出場が出来ないんですけど、サッカーを少し詳しい人ならご存知でしょうが、このチームも結構強いんです!

1994年に行われたアメリカ大会では、現在監督をしているストイチコフ選手が大活躍して、4位にもなっている国。

実は、ヨーロッパの国々はやっぱりサッカーの歴史が古いことや、周りに強豪国が多いこともあり、ワールドカップに出れない国でも、強い国はゴロゴロいるんです。

実際、今日の試合なんか観ていても、それを痛感しましたわ。

結果はご存知のように1-2で負けたということもあるんですけど、正直、試合が始まったときから、ある程度の結果は見えていたような感じ…残念ながら、ワールドカップ出場国といえども、代表当落線上の選手では相手のほうが一枚上手。

それを感じたのは、やっぱり『プレーの読み』。

スタジアムで観ると、テレビと違ってフィールド全体が見渡せるからよく分かるんですけど、日本の選手の動きはほとんど読まれてた感じ。

確かにシュートは打ってたので、それだけを見れば良いように思いますが、日本の選手のプレーを見ていると、なんか型にはまった中でプレーしていて、結構苦し紛れのパスが多いような…

別にパスの受け手がフリーでもないのにパスしてみたり、とにかくサイドの選手にパスを送ってみたり…

それに比べて、ブルガリアの選手は、しっかり相手の動きや敵の動きを見て、次を予測してる感じ。だから、パスやシュートが理にかなってる感じでしたわ。

それって、どこから生まれてくるのかというと、前回の記事にも関係しますけど、『一人一人が考えてプレーしてる』ってところでしょうか?

日本人(韓国や中国の人もそうかもしれませんが…)って、教えられたことを守るのは一流なんでしょうが、周りの状況を見ながら自分で考えて行動をするのには慣れてないんでしょうね。

サッカーやったことがある人なら分かると思いますが、あのスポーツって、ルールはすごくシンプルなんですけど、いざプレーしてみると、常に周りの状況が変化してるから、最初はホンマ戸惑うんですよね。

特に日本人の場合、私も含めてミスをするのを恐れる傾向にあるから、プレーを型にはめて、出来る限りミスをしないようにというか、『ミスであることが分かりにくい』ようにプレーしてしまうんですよね。多分。

だから、あまり意味を考えずに、教科書的なプレーをしてしまう。

でも、周りの状況を考えずに、決められたプレーをしていると相手には読まれてしまうし、結局意味の無いパスやドリブルをしているだけにもなりやすい…

どうして、そこにパスを出すのか?

どうして、パスではなくてドリブルなのか?

どうして、そのポジションにいるのか?

相手の動きや味方の動きを予測しながら、そういった細かいことの一つ一つを普段から考えてプレーしないと、サッカーのような変化の激しいスポーツの世界でトップレベルとは戦えないんでしょうね?

なあ~んか、久しぶりに代表の試合を観ていると、サッカーの応援よりも、サッカーを生み出したヨーロッパの国の歴史や文化に思いをめぐらしてしまいました。

まあ、アルゼンチン代表のジャージを羽織って、アウエーの席で観てたぐらいですから、ハナからサポーターではないんでしょうけど^_^;

たかがサッカーの話ではあるんですけど、長きにわたり戦争や紛争の中で生き抜いてきたヨーロッパの国の人のしたたかさを感じると同時に、日本人のうぶさに危うさを感じてしまう一日でした。

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2006年5月 4日 (木)

法を産み出すもの、動かすもの~十二人の怒れる男~

いきなりですが、昨日は憲法記念日だったんですよねえ…街宣車の数の多さを見てフト思い出した次第なんですけど、あきませんよねえ、いい年したオッサンが…

そして、今日は国民の休日。

日本国憲法はご存知のように太平洋戦争後の新しい日本の最高法規で、あらゆる法律、条令の基本となるものですが、私も確か中学生の時に、日本国憲法の前文を覚えさせられました。(今ではスッカリうる覚えですが…)

この憲法を取り巻く環境も最近は騒がしくなり始め、憲法を変えるべきとか、そうでないとか言われてますが、私も大学の時以来、久しぶりに目を通してみました。

で、感じたのが、すごく綺麗!というか、綺麗すぎる!?

憲法なので当然ある種の理想論を掲げるわけですし、現実的な妥協論を書いてたら意味を成さないのは当然ですけど、でも、なんか?????

だからといって、憲法を変えるべき!っていう意味ではないんですけど、ここに書いてあることをどれだけ私たちが理解しているか?と言われると…?????

法律の文章のややこしさということは別にして、ちょっと疑問を感じてしまいました。

その際たる例が、第9条の戦争放棄なんでしょうね。

書いてあることは、確かにその通り!平和が一番!

でも、どこの世界の人でもそれは同じこと。

戦争で利益を得ている一部の人間を除いて、多くの市民は戦争をしたいわけではないし、イラクの戦争にしても、結局アメリカが言う正義とは何を指してるのか?サッパリ分からずじまい…太平洋戦争にしても、別に当時の日本人が今の日本人より好戦的だったということかといえば、単純にそういうことでもないでしょうし…

それでも戦争を経験してしまった。

あの憲法があるというだけで、二度と戦争を起こさないということが果たして出来るのか?

今現在もイラクにいる自衛隊の人々の存在は、どう説明できるのか?

彼らがもし攻撃されたら?

もし、ちょっとした行き違いで日本に北朝鮮からミサイルが飛んできたときでも、戦争を起こさずに出来るのか?

大勢の朝鮮の人や日本の人が犠牲に巻き込まれずに済むのか?

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なんか考え出せば、一杯分からないことがあるはずなのに、それを放っているような感じ。

日本の憲法は、確かに当時の占領国アメリカ主導で作成されたものであるでしょうし、あれから60年以上が経過していることといった点などを考えれば、確かに必要に応じて見直さないといけないのかもしれないと思う一方で、

果たして憲法を産み出す力、憲法を動かしていく力を今の私たちが身につけることが出来たのか?ということ。

日本はヨーロッパの国々と違い、市民が自分の意思でモノを考えるように教育の中で教えられてきたのも、戦後になってようやく始まったばかり。しかも、教えている人間自体が、どれだけ理解していたかどうか?

だって、戦争が終わるまでは、自分の頭で考えることを否定されたような環境だったわけですし、それ以前も大半の人は、お上が決めたことや家訓、村の掟といったものを守っていればいいというような時代だったでしょうから。

私の少ない経験ではあるんですけど、外国人(特に欧米系)と日本人を比較して思うのが、『自分で考えるクセ』をもっている人が極めて少ないということ。これはホンマに思う。こんなえらそうなこと書いてる私も、彼らに比べると『弱いなあ』って思うんです。

このあたりを考えさせてくれるだけでなく、単純に娯楽としても楽しめる非常にオススメの映画があります。

それは、『十二人の怒れる男』

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監督はシドニー・ルメット。主演はヘンリー・フォンダ。

この作品はもともとは、アメリカのテレビ番組だったようですが、本当に面白くて、観ているうちにグイグイ作品に惹き込まれていく『名作中の名作』の一本です!

ある少年が起こした殺人事件を巡る十二人の陪審員の話なのですが、物語の冒頭では、十二人の陪審員のうち十一人が有罪の判決を下そうとします。

残る一人も別に無罪と思っているわけではなく、

ただ『もう一度じっくり考えてみよう』ということを他の陪審員に提案します。

大半の陪審員は自分の生活があって、あまり判決を長引かせるのも面倒だし、早くこの場所から退散したいと思っている中で、この提案は煙たがられます。

見るからに生真面目で誠実そうな男が、じっくり一つ一つの事実を自分の頭で考え検証していこうとする姿勢に、次第に引きこまれていく他の陪審員達。

一つ一つの事実を丹念に考え直していくことで浮きあがってくる事件の真実。

また審議を行っていく中で見えてくる陪審員一人一人の人間模様。

矛盾を抱える人間の姿と、理想を求める法律との間で起こる現実。

最初と最後のシーン以外は、陪審員室の中で展開されていく『舞台のような映画』ですが、ヘンリー・フォンダ以外の役者一人一人の演技も素晴らしく、それを映し出すカメラワークも最高!

ホンマにいいですよ。

こういう映画を観ていると、欧米の人々の思考パターンや議論の仕方というものが、我々日本人と異なるなあと思いますし、こういう思考や議論を行う体質があったから、民主主義というシステムを生み出し、法律というものを産み出すだけでなく、それを生かしていくことも出来るのだろうとも思ってしまいます。

僕たちも、そろそろ本当の意味で自分の頭で考えていかないといけない時代にきたのかもしれんなあと思うのと同時に、

この映画の主人公のように、たとえ自分一人であっても、疑問に感じることがあれば、それを発して、周りの人と話し合っていこうとせんとあかんなあと思う憲法記念日翌日でした。

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2006年5月 3日 (水)

ネット社会の憂鬱

やっとこさ、インターネット開通というか復帰(^0^v

前回の記事で少し触れましたが、先週末が引越しだったために、この数日間はテンヤワンヤの日々でした。(テンヤワンヤって古い表現。昔の漫才師の方でおられましたけどね)

特にちょっとした行き違いのために、プロバイダー変更に伴うインターネットの開通が遅れてしまい、一時は仕事にまで障害が出るのでは?と冷や汗ものでした。

しかし引越しの時にいつも思うのが…

①なんでこんなに荷物が多いんやろ?

②しかも、必要がなさそうなものが多いなあ…

③(いざ、新しい家で整理を始めると)あれは、どこに入れたっけ?

とまあ、今回もそんな感じでした(^0^;

それにしても自分で不思議に思うのが、テレビがつながらないことよりインターネットがつながらないことにイライラしている自分…

確かに仕事関係のメールのやり取りを行う可能性もあったのが一番の理由なんですが、それとは別に落ち着かない気持ちになってたというのが不思議でした。

何か情報を仕入れようと思ってもインターネットが無いと急に不便に思ったり、当然ブログのことも気になってたんですが、これって、インターネットをほとんど使わないウチの両親なんかにすれば『何を必死になってんねん?』って感じでしょうね。

(ウチの父親がメールを見るのは忘れるから見ないようにしてると言って、1000通以上が未読になってたのは笑いました^_^;確かに、広告のメールばかりで仕事には利用してないようでしたけどね)

先月の13日の毎日新聞webサイト記事によると、3月末のブログ登録者は868万人で半年間に80%以上増加しているらしく、特に30~40代の女性が友人作りのためにブログを作成することが多いとか。

これって、ネットワーク社会に急速に変わっていきつつあることの反映なんでしょうし、ツールとして利用できるものはどんどん利用すればOK!と思う反面、バーチャルなコミュニケーションに依存するようになるのはマズイなあ…とも思うんです。思いません?

やっぱり、本当のコミュニケーションというのは、人と人が直接会って、お互いの声を聞くだけでなく、お互いの表情やその場の空気も感じ取りながらじっくり積み上げていくもののような気がしています。(これってオッサン?まあ十分オッサンやけど)

実は、来週末に大阪の靱公園に面するカフェに知人や友人たちを少しばかり集めて、食事と映画を楽しむパーティー『cinema cafe 』を初めて行うんですが、これもそういう思いから出てきたものなんです。

このブログも単なるバーチャルなコミュニケーションの場というより、リアルなコミュニケーションの延長としてやっていければと思ってます。

まだまだ家の中が片付いておらず、週明けの仕事の準備も進めなあきませんし、テレビもまだついてない。

引越し明けで、とりとめの無い文章になったかもしれませんが、今日はひとまずこのあたりで…

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