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2006年6月29日 (木)

みなさん さようなら ~その時に備えて~

いきなりで何ですが、実は、先々週末と先週末の2週にわたって中学・高校時代の友人と取引先の方の親御さんが亡くなられるという不幸が続きました。

当たり前のことですけど、人の不幸はいつも突然訪れ、何度経験してもいいものではありませんが、特に最近は複雑な思いにかられます。

今までも、自分の周りで不幸にして亡くなられる方を見送ってきましたが、それは文字通り『不幸』と言えるような出来事であったように思います。

まだまだ働き盛りの親が病で亡くなるというのは不幸な出来事で、それ自体ショッキングな出来事ではあるのですが、でもどこかそれは他人事のようにとらえていたようにも思います。

しかし、自分自身が年を重ねると同時に両親も年を重ねていった今、自分の母親や父親がかつての姿とは異なり、年老いていることに気づくと同時に、いずれ遠くない日に自分にも『その出来事』が起こるのだということを感じます。

自分が若い頃には、親に反発し、反発することで自分の居場所を見つけていたのが、フト気づくと反発することが出来るかつての親の姿は消えうせ、『その時』が刻々と迫ってきていることを感じるようになる…そんな年齢に自分もなり始めている気がします。

Photo_28 『みなさん、さようなら』という映画は、そんな今の自分と重なるような映画です。

2003年のカナダとフランスの合作映画。

監督・脚本はドゥニ・アルカン、出演はレミー・ジラール、ステファン・ルソー。

映画は、ロンドンで証券ディラーとして働くセバスチャンに一本の電話がかかってくるところから始まります。

カナダのモントリオールに住む母親から、父親の容態が危ないという報せを耳にしますが、セバスチャンは一瞬ためらいます。

父親のレミは大学で歴史学を教える教授をしていたものの、女癖や酒癖も悪く、15年前には母親と離婚したような男で、セバスチャンは父親を極度に嫌い、接触を長く拒絶していたのです。父親に反発するがあまり、全く逆の人生を求めた息子。

あまりの母親の切迫した様子に、婚約者を連れてカナダの病院に向かうセバスチャンですが、病院に到着すると、そこはろくな施設も整っていないような病院でした。父親のレミは社会主義を信奉する自分の信念に従い、公立病院に入院していたのです。

セバスチャンは、設備の整った病院に父親を移動させ、検査を受けさせますが、結果は『末期ガン』。最新の治療をもってしても、余命はいくばくも無いという診断が下されます。

父親の命が残りわずかであることを知ってもなお、父親と素直に接することの出来ないセバスチャン。

父親のレミも、相変わらず病室に愛人を呼んで、酒を飲んだり、自分勝手なことをしながら毒舌を吐き、残りわずかな人生を堪能しようとします。でも、どこか寂しげで不安げなレミ。

セバスチャンは父親の最期の時が近づく中でも、父親に対して素直になれないまま、自分なりの愛情表現を模索していきますが、やがて、自分が分からなかった父親の別の顔、母親が愛した父親の別の顔が見え始めます…

この映画は、ポスターの写真が印象的で観たんですが、なかなか味わい深い作品でした。

話の設定自体は、多くの人が経験する『父と子の対立』をベースにしながら、最期の時を目の前にして懸命に何かを取り戻そうとする姿を人間味溢れる演出で描かれています。寂しく悲しい映画というより、どこか人間の力強さを感じさせてくれる映画です。

親と子、これほど深い人間関係であるにも関わらず、お互いの気持ちを素直に理解しあうことが難しい関係。ちょっとしたことで、お互いの思いがズレてしまう関係。近いのに、それを感じることが難しい関係。

生きている限り、いずれは必ず訪れる『最期の時』

その時を迎える準備が果たして自分に出来ているのか?

何かやり残していることはないのか?

伝え忘れていることはないのか?

日常の忙しい日々に追われる私たちですが、『その時』は突然訪れ、私たちにその決断を迫ります。

いずれは目の前に訪れる『その時』に備えるためにも、日々を生きねば。

そんなことをあらためて考えさせられる数週間でした。

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2006年6月24日 (土)

セントラル・ステーション~ブラジルの強さ~

昨日は多くの人が、寝不足+脱力感だったのではないでしょうか?

サッカーワールドカップ1次リーグ最終戦のブラジル対日本は、視聴率が20%を超えるほどの関心の高さだったようですが、結果は…残念ながら1-4。

ブラジルの底力と日本の力不足を痛感する試合でしたが、日本もこの結果を真摯に受け止め、前に進んでいかないといけませんね。

今、日本がすべきなのは、『オーストラリア戦の最後の6分が無かったら…』とか、『クロアチア戦で柳沢がゴールを入れていれば…』といった、タラレバの話で現実をごまかすのではなく、結果は結果として受け止め、これから何をしていかないといけないのか?を考えることでしょう。

僕は、この結果で実は良かったような気がしてます。

中途半端な結果でベスト16に残ったりすれば、日本のメディアを中心に間違った現状認識をもつだけだったと思いますし、今の日本の力を知るのにはこれぐらいの薬が必要でしょう。

何せ、日本がワールドカップに出始めて、たった8年。たったの8年ですよ。

あのフィーゴやルイ・コスタを擁したポルトガルでさえ、今回は40年ぶりの1次リーグ突破、前回はアルゼンチンやフランスが1次リーグ敗退、日本より先にワールドカップに出場を果たし前回はベスト4の快挙を成し遂げた韓国も、長く試合に勝てず、今回も1次リーグ敗退…

それほどワールドカップで勝つということは難しく、大変なことであるということが今回の結果でよく分かったのではないでしょうか?

ほんの10年ほど前までは多くの日本人がワールドカップにこれほどの関心を示すことはなく、出場することさえ夢のまた夢でした。それからよくここまで成長してきたと思いますが、まだまだ超えれない壁がそこにはあるようです。

特に今回はメディアでも盛んに言われていますが、日本と世界の差で感じたのが、技術の問題と精神力の違い。

ハングリー精神といってしまえば、簡単な表現になってしまいますが、元々サッカーはすごくシンプルなスポーツで単純そのもの。

『手を使わずに、相手のゴールに数多くシュートを入れれば勝ち』というだけなので、とにかくファールすれすれでもボールを奪い合い、相手のゴールめがけてシュートを打つ!

サッカーには体重や身長の制限も無ければ、天候で中止になることもほとんど無く、味方が一人、二人減ってもプレーは続行される。いつ、どこから相手のタックルが来るかも分からない。一人だけでなく、二人、三人で囲まれることもアリ。

そんな中でプレーを続けて、ましてや相手に勝つには、やはり『気持ち』。

ブラジルやアルゼンチンというとテクニックが話題になりますが、彼らは本当に『気持ち』を大切にしていると思います。テクニックなんか日本より断然上なのに、それでも必死になってボールを追いかけて、シュートを打ってくる。それはジーコが最後の会見で言っていたように、『教えられることではなく、経験で身につけるしかないこと』なのかもしれません。

そんなブラジルの一面を感じることが出来る映画がこれ。Photo_27

セントラル・ステーション。

1998年のブラジル映画。

監督はヴァルテル・サレスという人で、主演の女性はフェルナンダ・モンテネグロ。

舞台はブラジルのリオ。

リオといえば、ブラジルの中心地でもあるので、朝の通勤時間ともなれば、ブラジルといえども大勢の人が電車に乗ってやってきます。

主人公の中年女性ドーラはリオの駅で『代書屋』という仕事をしています。

これって、今の日本ではほとんどお目にかかることはありませんが、ブラジルではまだまだ字が書けない人が多いようで、友人や家族、恋人に手紙を出したくても、自分で書くことが出来ません。

ドーラはそんな人々のために駅で、代書を行っているのです。

冒頭のシーンでは、ドーラに向かって、いろんな人が手紙の文面を口頭で伝えているところから始まります。

恋人に聞いていても恥ずかしいような文面を言う者もいれば、愛する夫への手紙を頼む者、自分を騙した人間への手紙を頼む者…。

そんな中で、子供を連れたある女がアル中の夫への手紙を、子供にせがまれ嫌々ながらドーラに頼みに来ます。ドーラは快く代書を引き受けますが、実は彼女には裏の顔があったのです。

彼女は大勢の人から代書を頼まれ、手紙を送る約束で送料のお金も受け取りますが、実は家に帰ると手紙を出さずに、同じアパートに住む女性を手紙を読んで、机の中にしまってしまうのです。嫌ですねえ…こんな人。

そして次の日、同じ女性が再び子供を連れてドーラの前に現れます。

今度は、何故か前の日と表情が変わり、夫への愛する気持ちを表した手紙を出しなおして欲しいとドーラに頼みます。ドーラは、どこか投げやりな様子で代書を引き受けますが、母親と一緒に来ている子供ジョズエはドーラのことをどこか信用していない様子です。

代書を終え手紙の投函をドーラに頼んだ母親とジョズエは駅の外に出て行きますが、ジョズエがほんの一瞬、母親の手から離れた瞬間、なんと母親はバスに轢かれて死んでしまいます。

その様子をドーラはただ黙って見ているだけでしたが、行くあての無いジョズエは駅で寝泊りを始めるようになり、食べるものさえ無い日々が続きます。その様子を見るに見かねたドーラは、やむなくジョズエを家に連れていくことになりますが、ジョズエはドーラの家で投函せずに置かれている自分の写真の入った封筒を見つけてしまいます。

手紙を見つけられたドーラはジョズエに手紙を投函することを約束しますが、次の日の朝にはなんと人身売買の仲介者を通してジョズエを売り、代わりにカラーテレビを買ってしまいます。最悪(‐_‐;

事の次第を知った友人から、ジョズエがひょっとしたら臓器売買されるかもしれないと聞き、罪の意識にかられ次の日になると強引にジョズエを連れ出し、そこから二人でジョズエの父親探しの逃避行が始まります…

この映画を観て感じるのは、ブラジルの人々の『たくましさ』というか、『生きることへの執念』に近いような生活の様子。

まず最初にビックリするのが、朝の通勤電車でドアが開く前に、『窓から』電車に乗り込む姿!!それも一人や二人ではなく、ごく当たり前のように大勢の人が窓から乗り込んでくる姿。(昔、『ブラジルでは道に車線が無く、車が横に並んだ数が車線の数』って聞いたことがありますが、まさにそんな感じ。)

ドーラは、そんなブラジルで幼い頃から過ごしてきましたが、今では夢や希望を持つことを無意味に思い、ただ生きるために人を騙してでも生活しているような女性ですが、そんなドーラもジョズエと父親探しの旅を続けていくうちに、次第に『何かを信じる』ことの大切さに気づき始めます。

でも、この映画の面白いのは、日本人の僕らからすればどうしようも無い状況に何度も追い込まれても、そのたびに何か生きるための術を見つけてくるたくましさ。

映画のストーリー展開も、単なるハッピーエンドというものではなくて、そこに行くまでの過程が奥深いというか、ブラジルのようなところで生きていく中で身につけたような力強さがあるんですよ。この映画には。

ちょっと最近の日本人はなんかひ弱になってしまって、二言目には感動!感動!って叫ぶようになってしまいましたが、そんな様子もブラジル人から見たら子供っぽいでしょうね。

だって、ほんまに生きてると大変なことばかりの毎日…お金が無くて万引きでもしようものなら、銃で撃たれて殺されてしまうし、主人公のドーラのように教師の免許を持っていても代書屋のような仕事をしないといけない。ドーラのような普通の人が、ごく普通に子供の人身売買に手を染める。

人間の力ではどうしようもないほど過酷なことが普通に起こる日々を生きていくには、気持ちを強く持つと同時に、神様への信仰や家族愛といったもので自分たちを支えあうことが大切になってくるんでしょうね。

それに対して、当たり前のように文字が読めて、町で餓死するような人を見ることもなく、万引きをしたからといって銃で撃たれることも無い。朝の通勤ラッシュがひどいからといっても、さすがに窓から入ってまで席を奪いあうことも無い日本。

ブラジルから見れば天国のように思われるかもしれない環境に住みながら、年々増加する自殺者や家族をめぐる犯罪。

こんなことを考えると、ブラジルの精神力とと日本人のそれには、まだまだ雲泥の差があるのかもしれませんね。

ジーコも最後の最後になって、あまりにも大きな隔たりに愕然としたのかも?

とにかく、この敗戦を機に日本代表には次のステップに向かって進んでいってもらうことを願い、僕たちも『強い気持ち』で日々の生活を乗り切っていきましょう!

セントラル・ステーションは、ちょっと骨太のヒューマンドラマとしてオススメです。

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2006年6月21日 (水)

シンデレラ・マン~戦う意味~

サッカーに興味の無い人には申し訳ないのですが、本日もサッカーのお話からさせてもらいます。スイマセン。もう半月ほどの辛抱なので(^_^;

さて、明日の深夜はいよいよブラジル戦ですね。

この前のクロアチア戦は、みなさんはどんな印象をもたれたでしょうか?

前回のブログでも書きましたが、僕自身としては期待していた『挑戦する気持ち』を感じることが出来た面もあり、でも失望させられた面もあり…

確かに2試合続けて、あの時間帯でしかも屋根の影すらもグラウンドにかかってない状況では、普通にプレーすることすら難しかったとは思います。でも…

中田ヒデ選手や川口選手、バックの中澤選手など闘志を前面に出して戦う姿が見られる一方で、シュートを打たないのか打てないのか分からないフォワード陣。

体調が最悪だったにしろ、もっと前へ向かっていく姿勢が欲しかった中村選手。

辛いとか苦しいとか言う前に、彼らは最善の準備をしてきたのでしょうか?

(サッカーの専門誌などを読んでいても、全体の練習後も懸命に残って自分なりの課題をもって練習をしているのは中田ヒデ選手ぐらいのようですし…)

本当に勝ちたいと思って戦っていたのでしょうか?

普通の親善試合ではないのです。

四年に一度に行われ、世界中の人々が注目している大会に彼らは出ているのです。

日本でたった23人しか出場できないメンバーに選ばれているのです。

惜しくも選考に漏れた久保選手や佐藤選手、怪我で帰国することになった田中選手…そういった仲間たちのことを忘れてしまったのでしょうか?

技術とか戦術とか言う以前の問題で、彼らはワールドカップに出場する資格が無かったのかもしれません。

中田ヒデ選手やジーコ監督が、試合後に見せる表情は、そういったことを表しているように思われてなりません。

何故、戦うのか?

何と戦うのか?

実は、これは日本代表選手だけではなく、僕達にも言えることでしょう。

人生、それ自体が実は『戦いの場』だと思います。

『生きる』ということは決して、楽なことではないですし、辛く、苦しいのが当たり前。そんな中で、どれだけ諦めずに前に向かうことが出来るのか?

それが問われるのが人生というもののような気がします。

Photo_26 シンデレラマン

2005年のアメリカ映画。

監督は、今話題の『ダヴィンチ・コード』でも監督を務めているロン・ハワード。

出演は、ラッセル・クロウ、レネー・ゼルウィガー、ポール・ジアマッティ。

この映画は、実在のボクサー『ジム・ブラドック』の半生を描いた作品です。

20世紀初頭のアメリカに実在したボクサーは若くして、有望な選手でした。誰しも、タイトルを獲るのは時間の問題だと思っていたのですが、ある試合で拳に怪我をしてしまい、やがて試合にも出れなくなっていきます。

そして、あの世界大恐慌。

町には仕事を求める人々が溢れ、ジムもそんな中の一人として毎日仕事を探す日々です。

あんなに裕福だった生活が嘘のような貧しい日々を送るジムの一家。

でも、ジムはどんなときにも家族を大切にし、食べ物が足りないときは自分の分を譲ってでも家族を守ろうとします。

当時のアメリカでは、家計が苦しくなると子供を食べさせることが出来ないので、多くの家庭では子供をよその家に預けることが珍しくなかったようで、ジムの家でも妻が子供をよその家に預けることを提案しますが、そんなときでもジムは決して諦めず、懸命に働き、時にはかつての自分の雇い主であったプロモーターや友人たちに頭を下げててもお金を工面していきます。

そんなある日、かつてのジムのマネージャーでもあり友人でもあったジョーが、ジムに一夜だけの試合を持ちかけます。家族を救うために、一夜だけの試合に出場することを承諾するジム。

そして、それは彼の大きな人生の転換期となるのでした…。

ジムは、映画の最後で、当時もっとも凶暴で戦った相手を死においやるようなボクサーと戦うことになります。

誰もがジムの敗戦を予想する中、今度ばかりは必死でジムを止めようとする妻。

そんな妻に、ジムは優しい声で『たとえ負けると分かっているときでも、人生には戦わないといけないときがある。』と答え、富や名誉のためではなく、貧しくて人生に希望を持てずにいる人々や、自分を助けてくれた友人たち、そして最後まで支え続けてくれた家族のためにリングに上がることを決意します。

ただ誤解の無いようにお伝えしておくと、ジムは決して無謀な男ではなく、たとえ可能性が低くても勝利をおさめるための準備をして、最後まで諦めずに戦う人でした。

ジムを演じているラッセル・クロウも、なかなか好演だったように思います。

何か日本の今の選手を見ていると、戦いというものを頭の中だけのきれい事で片付けているような気がしてなりません。

相手だって必死で向かってくるんですから、それを上回る気持ちで向かっていかないと勝てるものではないでしょう。

中田ヒデ選手のように、言葉だけでなく行動でも自分の意思を前面に押し出し、試合が終われば文字通りグラウンドにぶっ倒れてしまう。試合に負ければ、悔しくてろくにインタビューにも答えれない。それが本当の姿なのではないでしょうか?

何もマスコミ向けにきれい事を言わなくていいんです。

もちろんファンを大切にすることは重要です。

でも、彼らはその前に、グラウンドの上で戦うプレーを表現することが何よりも重要なのではないでしょうか?

サポーターも、勝った負けただけでなく、もっと彼らのプレーを厳しく見つめ、時には厳しく接することも必要なように思います。

クロアチア戦で引き分けた後に、笑顔で拍手を送っている日本人の女性サポーターがテレビで映っているのが、どこか今の日本を表しているようで複雑な気持ちでした。

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2006年6月17日 (土)

ノー・マンズ・ランド~旧ユーゴの人へのエール~

サッカーワールドカップが開幕して以来、ワールドカップ関連の記事が続きますが、明日はいよいよ、日本代表の真価が問われるクロアチア戦です。

前回のブログにも書きましたが、とにかく今の日本代表に求めることは『挑戦する気持ち』を前面に出して戦ってほしい!それのみです。

イイ結果が出ることに越したことはありませんが、『中味の無い結果』は意味が無いように思いますし、これからの日本代表のためにも、日本で応援しているチビッコの為にも、『日本代表であるという誇り』を胸に戦ってほしいですね。

さて、明日戦う相手のクロアチア。

みなさんは、どの程度ご存知でしょうか?

旧ユーゴスラビアの国ということで、どうしても内戦の暗いイメージを持ちがちですし、見るからに恐そうな顔つきの人が多いから、なんか無骨な印象を持っていません?(なんせ格闘家ミルコの国ですしネ)

クロアチアの人口は約440万人と大きな国ではありませんが、アドリア海に面した美しい国で、ヨーロッパでは『アドリア海の秘宝』と言われるほどのようです。

人々の性格も本来は温厚で平和的で、決して戦闘的な人々でありません。

でも、旧ユーゴスラビアの歴史をちょっと勉強してみると、『ユーゴスラビアの歴史=戦いの歴史』といっても過言でないぐらい、古くから多くの紛争に巻き込まれてきたようです。

ユーゴスラビアと一口に言っても、多くの民族、言語、宗教が関わる多民族国家で、それは以下の特徴を見れば、よく分かります。

七つの国境;イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア

六つの共和国;スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルチェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア

五つの民族;スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人、マケドニア人

四つの言語;スロベニア語、セルビア・クロアチア語、ボスニア語、マケドニア語

三つの宗教;東方正教、カトリック、イスラム教

二つの文字;ラテン文字、キリル文字

ひえ~って感じですね。

ですので、もともと一つの国家としてまとまること自体が奇跡に近いことだったのかもしれませんが、それを可能にしたのは、第二次大戦中からドイツの侵略に抵抗してきた『チトー大統領』によるところが大きかったようです。

しかし、彼が1980年に亡くなると、当然のことながら一つの国家としてまとまることが難しくなり、やがて1991年からの内戦へと進んでいきました。

僕たち日本人は漠然としか理解してない部分が多いと思いますが、実はこの内戦もスロベニア紛争、クロアチア紛争、ボスニア紛争、コソボ紛争、マケドニア紛争と民族の数が多いだけに、その内戦の度合いも半端はではありませんでした。

今日、ご紹介する映画は、クロアチアではありませんが、セルビアとボスニアの間での内戦を舞台にした映画『ノー・マンズ・ランド』です。Photo_25

2001年の映画で、監督はこれが長編初監督のダニス・タノヴィッチ。

この映画の製作には、フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、スロヴェニアと多くの国が関わっているので、どこの国の映画とは言えませんが、この監督はボスニア・ヘルチェゴビナの生まれで、紛争当時は実際に戦地で多くのドキュメンタリー映像を撮影していたようです。

それだけに、フィクションとはいえ、リアリティーに溢れメッセージ色の強い作品となっています。でも、この作品のユニークなところは、単なる戦争映画ではなく、『一種のブラックユーモアを交えながら、戦争を描いている』ところです。

三十代の若い監督が作ったとは思えない出来栄え。

簡単にこの映画のあらすじをお話しておくと、セルビアとボスニアとの間の紛争が真っ只中であった1993年、両国の紛争地帯の間には『ノー・マンズ・ランド』と呼ばれる中間地帯がありました。

ある戦闘中に、ボスニア兵士達は霧の中で方向を見失い、なんと敵陣のセルビア軍の中に入り込んでしまいます。激しい戦闘の後、なんとか生き残った一人の兵士チキは、塹壕の中に身を隠します。

やがて霧が晴れ、チキが辺りを見回すと、そこは『ノー・マンズ・ランド』でした。

チキは、なんとかそこから逃げ出そうとしますが、そこに二人のセルビア兵が生存兵の偵察にやって来ます。

慌てて身を隠し、様子を見守るチキ。

セルビア兵たちは、生存兵の様子を見ていくと、最後になんと一人のボスニア兵の死体に『地雷』を仕掛けます。それは、ボスニア兵が自軍の兵士たちを引き上げていく際に、彼らを殺すために仕掛けるものでした。

物陰で隠れて様子を見ていたチキは、二人のセルビア兵のうち一人を射殺し、もう一人(ニノ)にも怪我を負わせます。

そしてチキとニノのにらみ合いが始まりますが、そこでなんと地雷を仕掛けられたボスニア兵が息を吹き返します。

そこから地雷を仕掛けられて身動きの出来ない味方の兵士と、チキ、それにセルビア兵のニノの3人の間に奇妙な空間が生まれ、三人のそれぞれの思惑の中で物語は思わぬ方向に進んでいくのです。

この映画は、ブラックに満ちた笑いが随所に散りばめられている反面、その笑いの中に戦争の非人間性や恐ろしさ、悲しみを感じるという異色の戦争映画です。

この映画の登場人物は極限の状況に追い込まれた中で、相手を憎むことで自分を正当化してみたり、憎しみながらも、なんとか人間性を求めてみたり、そしてそんな境遇に置かれた自分達を嘆き悲しみます。

戦争とは、本来それを体験したことの無い人間には理解不能なことなのでしょうし、おざなりの言葉で『平和』や『愛』を唱えて解決できることでもないのしょう。

別にクロアチアやセルビア、ボスニアといった旧ユーゴスラビアの人々が特別戦闘的であったり、冷淡な人間であったわけでもなければ、無知な人間であったわけでもなく、僕達と変わらないごく普通に平和を愛する人々なのだと思います。

この映画は、そんな戦争の矛盾を究極のブラックユーモアで描いています。正直、この映画を観た後は、ある種の後味の悪さが残るかもしれません。

それは多分、戦争というものを『映画で観て、泣いたり笑ったりしている僕達』も、そこに映っているからなのかもしれません。

でも是非、一度この機会に観てはどうでしょう?ワールドカップのお祭り騒ぎに浮かれるだけでなく、その戦いとは別の側面を少しは感じることが出来るかもしれませんヨ。

明日日本が戦うクロアチア、昨日アルゼンチンに大敗し1次リーグでワールドカップを去ることになったセルビア・モンテネグロ、共にこの十年ほどの間に悲惨極まりない戦いを経験し、ようやくサッカーのワールドカップに戻ってきたのですから、勝敗とは別の部分でエールを送りましょう。

今尚、世界では紛争が絶えませんが、サッカーワールドカップに全ての国が平和に参加できるようになればいいなあと思います。

そして明日の日本対クロアチア戦。

日本のイレブンもサポーターも、クロアチアという国が単にワールドカップの予選を通過した強国ということだけでなく、文字通り血と涙の戦いをくぐり抜けてきた国だということを忘れず、それに敬意を表する意味でも、気持ちで負けないで戦っていかないと勝てないでしょうし、ワールドカップで戦う資格の無い国となってしまいます。

頑張れ日本! 頑張れクロアチア!

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2006年6月13日 (火)

椿 三十郎~サムライ・ブルーへのエール~

みなさんは観ました?昨夜の試合。

夜の10時からという放送時間だったにも関わらず、視聴率は関西では44%、関東で49%という異常なほどの熱狂を見せたサッカーワールドカップ『日本対オーストラリア戦』。

結果は、ご存知の通り1-3という惨敗。

しかも終了間際の6分間に3点という日本にとってみれば悪夢のような試合でした。

マスコミ報道は、何か要点の得ないものばかりが目立ちますが、敗因は僕が思うに、戦術とかテクニックがどうのこうの言う前の問題。

要は『本当に勝ちたいと個々が思っていたのか?』という極めて、シンプルな話。

『アホか?そんなの誰でも思ってる。』と言われるかもしれませんが、確かにその通り。でも、その度合いが問題。

そして、思っていることを行動で示したかどうか?それが問題です。思っているだけでは、ダメで、それを行動に移していかないとダメ。

それは、中田選手の言う『とにかく走る』ということかもしれませんし、『相手を抜く』『シュートを思い切って打つ』ということ。そういったプレーが全く感じれませんでした。

クロアチアのキャプテンがインタビューで応えてましたけど、試合を観る限り、『勝ちたい』という気持ちが全く感じられない試合だったのが本当に残念。というか悔しい。

これは代表の中田英寿選手が、ずっと言い続けてきたことですが、この大一番でそれが出た感じ。

なのに、試合直後のインタビューでは『途中までは良かった』とか『点を取っていれば…』とか訳の分からないコメントばかり…

本当に攻める気持ちがあったのか?疑問です。

それを感じることが出来たのは中田選手ぐらい…

サッカーのワールドカップは文字通り世界一を目指して、世界中の国と地域の代表が集まる大会!

それはお祭りというより、国や民族の威信をかけた真剣勝負の場。

だから親善試合なんかと気持ちの入れ方がケタ違い!

なのに日本の選手を見てると、良くも悪くも普段どおり。

なんかキリンカップ観てるのかと思ってしまいました。

それと、昨日の試合を観て、あらためて思ってしまったのが、これって自分も含めて日本人のメンタリティーなのかなあ?って。

ヨーロッパや中南米、アフリカ、アジアの多くの国は、地理的にも国境が他の国と接していて、ある意味『歴史=隣国との紛争』といってもいいぐらい。

だから、いつも緊張状態にあるのが当たり前。

よく日本の外交は二流どころか三流以下と言われますけど、ヨーロッパなんて日本より小さな国でも、自分たちの国が生き残るためにあらゆる術を使ってますもんね。

それに対して、我が日本は海に囲まれ、神風なるものでずっと守られてると思ってたような国ですから、どこか『温室育ち』なんでしょうか?

サッカーは特に、ヨーロッパで生まれたスポーツらしく、『状況が変化する中で、いかに個人が判断し、勇気をもって行動し、チームとして戦っていくのか?』が問われるスポーツ。そこには、ある種の『したたかさ』も必要。

日本がこの10年ほどで急成長したのは確かですが、世界の真剣勝負で戦うには、戦術や技術とは異なる『何か』が、まだ欠けているのかもしれませんね。

一人で判断し、行動するのに臆病で、常に誰かと同調したがる民族。それが僕たち日本人の特性なんでしょうか?

今回の日本代表は『サムライブルー』という愛称で呼ばれてますが、かつて日本には侍と呼ばれる人々が存在しました。でも、実は侍といっても、みんながみんな勇敢なわけでは無かったようなんですよね。

そのあたりを面白おかしく描いている映画がコレ。

Photo_24 黒澤 明監督の『椿 三十郎』

1962年の映画で、あの『用心棒』の続編とも言える作品です。

原作といっても、ストーリーは全く異なりますが、話のベースになっているのが山本 周五郎氏の『日々平安』。(この小説も面白いので、是非読んでみてください。)

このお話、冒頭から面白い。

若い侍たちが神社のお堂の中で、密談をしているところから始まります。若い侍たちの代表と思われる井坂が、仲間たちに事の次第を話しています。

井坂たち若い侍は、城内の賄賂の横行を察知し、井坂の祖父である城代家老に意見書を提出したものの、何やら意味ありげな話をされた挙句、受け取りを断られてしまったので、大目付にその話をしたところ、大いに賛同され協力するから仲間を集めて欲しいと言われたと伝えます。

その話を聞き、喜ぶ様子の若い侍たち。

と、お堂の中から、一人の浪人風の侍があくびをしながら現れます。三船敏郎扮する、椿 三十郎の登場です。

男の登場に色めきだつ若い侍たち。しかし、三十郎は落ち着いた様子で、若い侍たちに、井坂の話の不審な点を話し始めます。三十郎は、『怪しいのは城代家老ではなくて、大目付ではないのか?ひょっとしたら、ここに集まれと言われたのも罠ではないのか?』と言い始めます。

半信半疑の若い侍たちが、お堂の周りにそっと目をやると、そこには大勢の侍たち…映画のスタートから、いきなり絶対絶命の主人公たち。

黒澤監督は、本当に映画の作り方が上手いんですよね。テンポがいいというか、本当にスゴイ。

この映画は単なる時代劇というより、ユーモアと機知に溢れた作品で、アクションも最後のシーンは特に有名なので、観たことのない人は一度は観て欲しい作品。

三十郎と半兵衛の一騎打ち。一瞬の勝負に黒澤監督の演出が光ります。

さて、この映画の中で登場する若い侍たち。立派な姿は見かけだけで、頼りなく、何事も一人で判断できず、困った時には三十郎頼み。言うことは立派でも、何一つ自分で出来ない。

彼らも、映画が進行し、様々な経験を積む中で、社会の裏と表を知り、次第にたくましく成長していきます。

おそらく三十郎も、かつてはそんな若い侍の一人だったのかもしれませんね。

侍といえども、刀を持っていれば成れるものではなく、多くの経験を積み鍛錬をしていく中で出来上がっていくものなのでしょう。

ドイツで戦っているサムライブルー達も、まだまだ世界の舞台では青侍なのですから、失敗することを恐れず、とにかく挑戦して欲しいものです。

メディアのように星勘定をするのではなく、あくまで一戦一戦の積み重ね。

ワンプレー、ワンプレーの積み重ねが勝負を決めるのですし、とにかく『勝負する気持ち』が大切。

そんなイレブンの姿を次の試合では期待しましょう!

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2006年6月10日 (土)

グッバイ・レーニン~ワールドカップの別の顔~

いよいよ、4年に一度のスポーツのビッグイベント『サッカーワールドカップ』が開幕し、無事開催国のドイツが初戦を勝利しました。

日本でも連日ワールドカップに関する報道で大賑わいですし、お店ではワールドカップ商戦真っ盛りといったところですね。

こんなこと一昔前の日本では想像でもできなかったことですけど…僕たちが高校生や大学生の頃なんて、サッカーのワールドカップのことを伝えるのはNHKぐらいでしたからねえ…しかも、この時期は選挙やウインブルドンのテニスとかで中継されるかどうも、いつもヒヤヒヤしてました(^0^;

今回の開催国ドイツは過去に3度優勝していますが、前回優勝は90年のイタリア大会。この時はまだ西ドイツとしての参加で、現在監督をしているクリンスマンが現役で、当時の西ドイツチームのエースでもありました。

この時の西ドイツチームは強かった!当時の西ドイツの選手はイタリアなど海外で活躍しているスター選手も多くて、1次リーグから圧倒的な強さで勝っていった記憶があります。

さて、この90年の前年、1989年にベルリンの壁が崩壊し、90年には政治的にもドイツが統一された年でした。只、ドイツが統一されて10年以上が経過した今も尚経済格差は大きく、大きな問題となっているようです。

以前のブログでは、戦後にドイツが初優勝したときの様子を描いた『ベルンの奇蹟』という映画を紹介しましたが、今回はちょっと趣向を変えて、東西のドイツが統一された当時の様子を描いた作品を紹介します。

Photo_23 『グッバイ・レーニン』

2003年のドイツ映画。監督・脚本はヴォルフガング・ベッカー。出演はダニエル・ブリュール、カトリーン・ザース。

舞台は1989年の東ベルリン。

主人公の青年アレックスは、テレビの修理店で働いていますが、父親は10年前に西ドイツに亡命してしまい、母親は父親が亡命した後も、東ベルリンに残り、ますます共産主義に傾倒していきます。

そんなある日、青年アレックスは反政府のデモに参加し警察に捕らえられてしまいますが、その姿を町で見かけた母親はショックで意識を失ってしまいます。

母親が意識不明のまま時間だけが過ぎていき、やがて『ベルリンの壁』は崩壊し、全ての価値観が変わってしまいます。社会主義一辺倒であった町からは、どんどんその色が取り除かれ、町の姿は見る見るうちに変わっていってしまうのです。

そして母親が意識を失ってから8ヶ月が経過したある日、母親は意識を取り戻すのですが、『今度、あのようなショックを受けることがあれば生命が危ない』と医師から青年は伝えられます。

あれだけ社会主義に傾倒し、東ドイツを愛していた母が今の東ドイツを見たら…

そこから青年と母親を取り巻く人々の悪戦苦闘の日々が始まるのです。

愛する母親のために、崩壊した東ドイツの生活を再現する人々。

その姿は滑稽でもありますが、どこか悲しくもあり、いじらしくもあります。

一つの家族の目を通して描いた『東西ドイツの統一』という別の姿が、ユーモアと愛情に溢れて描かれています。

今の日本に住む僕たちは、なんとなくでしか分からない『戦争で分断された国家の統一』の別の姿を知ることが出来ます。

今回のサッカーワールドカップは、あれだけ望んでいた東西ドイツの統一を手にした今も尚、様々な問題に苦しんでいるドイツ国民にとって、単に一つのスポーツイベントというだけではない、別の思いがあるように思われます。

今回のドイツ代表チームのキャプテンであるバラック選手は、今のドイツでは数少ないスター選手ですが、彼は東ドイツ出身の選手です。

東ドイツ出身の選手がキャプテンとして、地元で優勝する!

統一ドイツとしての初優勝!

これは今のドイツ国民にとって、ドイツの将来に希望を託す意味でも大きな夢と言えるでしょう。

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2006年6月 5日 (月)

ネバーランド~大人になるということ~

これまでに何度か『子供』に関することを、このブログの中でも書いてきましたが、現代はどうやら子供にとっては残念ながら受難の時代であることは確かなようです。

子供に関連する事件は後を絶たず、成人した少年、少女も人生に目標を見出せず、増加していくニートと呼ばれる若者たち…

一方で、ヒルズ族としてもてはやされていた人々の相次ぐ逮捕劇…時代の寵児のごとく話題を振りまいていた人間が、実は不正や偽装を働いていたという連日の報道。

どうなってしまったんでしょ?今の日本は?

先日、『ネバーランド』という映画を観ました。Photo_22

2003年制作のアメリカ・イギリス映画。

監督はマーク・フォスター、主演ジョニー・デップ。

この映画はご存知かもしれませんが、子供の時に一度は本で読んだり、映画を観たことがある『ピーターパン』の誕生秘話を元にした映画です。

ジョニー・デップ扮する主人公の劇作家ジェームズ・バリは、上演する舞台の評判が悪く、社交好きで現実的な妻との関係もうまくいっていません。

ある日、バリは気分転換も兼ねていつもの散歩に犬を連れて出かけますが、そこで奇妙な家族に出会います。

想像力豊かな子供たちとその母親に出会ったバリは、少しずつ自分の中で眠っていた感覚が目覚めていきます。

バリは家族との交流を深めていく中で、一人家族の中で浮いている少年ピーターのことが気になり始めます。バリが空想力を働かせたさまざまな遊びを持ち出してきても、ピーターだけはいつも冷めた視線で遊びの輪に入ろうとしません。

ピーターは幼い頃に父親を亡くして以来、夢や希望をもつことをあきらめ、再び傷つくことを恐れるがあまり、『大人の心』を持つ少年になってしまったのです。

そんなピーターになんとか子供の心を持たせようと、バリは自分の家族のように子供たちと接するようになりますが、それは同時に周囲の現実社会からは問題視され、悪い噂も立ち始めるようになります。

バリはピーターに文章を書くことを勧め、自分自身もピーターを主役にした物語を書き始めます。

そんなバリの思いがピーターにも次第に伝わり始め、ピーターが自作の演劇をバリと母親の前で発表するのですが、兄弟で演じる舞台の上演中に母親が突然発作を起こしてしまいます。父親の悪夢を再び思い出すピーター…

この映画の最後で、母の死に落ち込むバリとピーターが公園のベンチに座り交わす会話があります。

ピーター『どうして死んだの?』

バリ『私にも分からない。お母さんを想うと幸せそうな顔を思い出す…(略)…お母さんはネバーランドにいる。君が望むときに訪ねていけるんだ。いつでも行ける。』

ピーター『どうやって?』

バリ『信じる力で、心から信じて。』

ピーター『お母さんが見える…』

子供から大人になるにつれて、人は様々な挫折や悲しみ、苦しみに出会い、時に人生の不条理を嘆き、恨みもします。

そして年をとり、『大人』になるにつれて何かを失っていきます。

今、多くの子供たちが事件に巻き込まれ、大人になっても人生に生きる意味を見出せない人が増えている姿を見ていると、まさしく100年前にバリが描いた『ピーターパン』のドラマが現実に起こっているかのように思います。

バリの時代から100年が経過し、物質的には比べ物にならないぐらい豊かになったはずなのに、同じ問題を抱えている私たち…。

僕は例え精神に障害があったとしても、子供に危害を加えた人間を許す気はありませんが、そういった事件を起こした人間もかつては一人の子供であり、夢や希望をもっていたのではないかと思うと、複雑な気持ちです。

この映画の最後のほうのシーンで、ピーターパンの上演が成功した後、バリがピーターに駆け寄ると周りの人々が『この子がピーターパンなのね?』と問いかけ、ピーターがバリを指してこう答えます。

『いいえ、この人がピーターパンです。』

実は、僕たち大人がまず勇気をもって『何か』を信じないといけないのかもしれません。

生きていけばいくほど失望することも多くなり、人生をあきらめる気持ちにもなってしまうこともありますが、バリがそうであったように、今の時代こそ『心から何か信じて』生きていかないといけないのかもしれません。

そうすることが、今の子供たちを救うことにつながるのでしょう。

あなたの心には、まだネバーランドはありますか?

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2006年6月 3日 (土)

桜桃の味~自殺者が8年連続で3万人超~

昨日の新聞で、昨年1年間の全国の自殺者が8年連続で3万人を超えたと報道されていました。

昨年1年間の死亡者数は全体で108万人なので、3%弱の人が自ら命を絶ったということになります。がん死者が32万人で最も多く、それに比べると少ないように思いますが、不慮の事故で亡くなる方が4万人ということなので、ほぼ自殺する人と不慮の事故で亡くなる人の数が同じであるということです。

自殺者の数は98年あたりから急激に増加し、特に『男性の自殺者』が増加しているのです。

又、年齢別では五十代以上では前年から減少しているのに対して、30代では前年比6.3%増、20代では5%増、19歳以下では3.2%増と『若い世代での増加』が目立つようです。

実は僕も今から10年ほど前に、親しい友人を二人自殺で失ってしまいました。

自殺した理由というのは本当のところ本人以外は分からないのでしょうし、ひょっとしたら本人もよく分からなかったのかもしれません。

僕の友人に関する限り、二人とも本当にイイ人間でした。

年齢や性別を問わず、誰からも好かれるような人間で、スポーツ好きでいつも周りに気を配れるような人柄でしたが、後から思えば、一人は新しい社会人生活、一人は出産後の育児という共に新しい生活環境の中で苦しんでいたのかもしれません。

周りから見れば、別に死ぬほどのことは無いどころか、新しい人生のスタートを切ったばかりなのにナゼ?と思ってしまいますが、いつの間にか周りが見えなくなり、一人思いつめてしまう…

あの時、何か一言かけていれば何かが変わったかも?とよく思いましたが、ただ時間に追われる日々を送っていた自分を思い返すと、そんな自分の思いも嘘っぽく思えてしまいます。

Photo_21 『桜桃の味』というイラン映画をご存知ですか?

アッパス・キアロスタミという監督の作品で、『友達はどこ?』や『オリーブの林をぬけて』という作品でも知られています。

1997年の作品で、カンヌ映画祭でもグランプリを受賞しました。

但し、一般的な娯楽映画を見慣れている方にとっては、この映画は退屈に思われる人が多いのではないでしょうか?

実は僕もそうでした。

確か最初は劇場で観たと思うのですが、上映中何度もウトウトした記憶があります。

でも、この映画はイイと思いますし、一度観て欲しい作品です。

それはナゼか?

2回目に自宅で観て思ったのが、『自殺』という特殊な状況に置かれた主人公の心境を、さまざまなカタチで表現してくれているということ。しかも、セリフやナレーションではなくて、映像として映し出してくれているような気がして、言葉や理屈では分からない世界を感じさせてくれる気がします。

そして、自殺をしようとする人間を主人公にすえながら、生きることの難しさを伝えると同時に、映画の最後では日常のなんでもないことに隠されている生命の美しさも伝えてくれてるように思います。

この映画では一人の中年の男が、車を運転しながら『自分の願いを叶えてくれる人』を探すところから始まります。

その『願い』というのは、『自分は今夜睡眠薬を飲んで、山に掘った土の中で横たわるから、朝になって声をかけても返事が無かったら、土をかけて埋めてほしい』という極めて変わったお願いでした。

若い兵隊や神学生などを車に乗せて世間話をしながら、お願いするのですが、冷静な口調でしかも車という密室の中で頼まれるものですから、当然のことながら逃げ出してしまいます。

男は途方に暮れてしまいますが、やがて一人の老人が男の願いを叶えてくれると言います。男は老人に感謝しますが、老人は男に自分の自殺にまつわる体験をゆっくりと、そして全てを包み込むような優しい口調で話し始めます。

このキアロスタミという監督は、元々ドキュメンタリーを撮っていたというだけあって、実にリアルな演出をする人なんですが、そのリアルな演出をベースに、主人公の顔つきや表情、土ぼこりの道を走る主人公の車、死ぬときさえも誰からも相手にされない主人公…そして映画の舞台となる一面土だらけのイランの大地。

そんなもの全てが主人公の追い詰められた心境を表しているような気がします。

そして、老人の話を聞き、主人公の心の中にわずかな変化が見られ、やがて迎えるいつもと同じ朝。

この映画の中で、主人公は自分の死ぬ理由に関しては一切口にしません。そういったことは口にしない代わりに、彼のお願いの中に主人公の心の迷いが表れています。

『声をかけても返事が無かったら』、土をかけて埋めてほしい。

生きることに対して絶望感を抱きながらも、心のどこかで救いを求めている主人公。

結局のところ、人は誰でも生きることに苦しみ、でも一方で救いを求める。

絶望感に打ちひしがれていても、どこかで救いを求めている。

生きるか、死ぬか…それは常に本人の意思に任されています。

でも死ねば全ては終わります。

死ぬことはいつだって出来ますが、生きることは一度あきらめれば、やり直しは出来ません。

生きることは決して楽なことではありませんが、どんなに苦しい時でも『いつだって死ねるんだから、あともう少し』と思いながら生きてみると、今までとは違う世界が見えてくるのかもしれません。

この主人公のように。

僕は失った友人と二度とこの世で会うことは出来ませんが、早くして自らの生命を絶ってしまった二人のためにも、泥臭くても生き続けて何かを見つけていくこうと思っています。

それが一番の供養になるのでしょうし。

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