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2006年8月30日 (水)

マトリクス~虚構と現実~

以前にも、岐阜の殺人事件に関してブログで触れたことがありますが、依然として十代の少年少女の犯罪が目立ちます。

マスコミの取り上げ方にもよるでしょうが、この数日だけでも北海道の十代の少年が自分の母親を友達に依頼して殺した事件や、一昨日の山口周南での女子生徒殺人事件の容疑者も十九歳の少年だとか…

ほんまにどうなってしまったんやろ?

日本はひょっとしたら、心の内戦状態なのかも?

気になるのが、こうした事件の多くが都会ではなくて、郊外や田舎で起こること。

今の時代は、本当に情報過多といってもいいぐらい、テレビやラジオだけでなく、いつどこにいても情報が送られてくる。

しかも、良いものだけでなく悪い情報も。

良い悪いというのは、見た目だけの問題ではなくて、『生きる』ということ自体がスゴク軽く扱われていることが多いのが気がかり。

しかも、『情報』というのは、基本的に『頭』に入ってくるだけなので、それを手にしたからといって、別に本人が何も変わるわけではないのに、あたかもそれが現実であるかのように感じてしまうところが更にタチが悪い。

そもそも、『生きる』ということ自体がとてつもなく大変なことであるはずなのに、当たり前のようにご飯を食べることが出来て、寝る場所もある、友達もいる、病気で死ぬ人も少ない、戦争もない…

これって、本当はスゴク幸せなことであるはずなのに、それを実感出来ない現代人の不幸。

『生きる』って、頭で考えることではなくて、もっと体で感じることであるはずなのに、何かというとネットで情報を入手したり、メールで会話をしたり、テレビから流れてくる情報、それらにリアリティーを感じてしまう僕達。

そして、フト何かの拍子に、現実の世界がそうではないことに気づき、現実のほうを壊してしまおうとしてるのかも?

Photo_42 映画マトリクス

ご存知、超ヒット作の三部作1作目。

1作目は1999年の制作。

監督、脚本はアンディとラリーのウォッシャウスキー兄弟。

出演はキアヌ・リーブス、ローレンス・フィッシュバーン、キャリー=アン・モス他

『マトリクス』というのは、元は『子宮』を意味するラテン語から来ている英語で、そこから派生して母体とか、基盤とか、背景という意味。

この映画を最初に劇場で観たときは、『本当によく出来てる!』というか、娯楽としての面白さはもちろん、その背景にあるのが、スゴク深い!というか哲学的で、よくもまあ、そんな小難しいことを娯楽映画に出来たなあ!って思いました。

今でもその技量には感心しますけど、最近の日本を見ていると、さながら『マトリクス』の世界みたいで恐いです。

そもそも、僕らが現実と思ってるものが、現実なのか?といわれると、考えてみれば確証なんてない。

いや、俺は見た!聞いた!触った!誰かがそばにいた!と言っても、それ自体も『自分の脳がそう思ってる』からだけであって、実はそれ自体も虚構の世界だと言われても、反論出来ない。

マトリクスという映画を観たことの無い人も無いとはいえないので、一応簡単にお話をしておくと…

冒頭は黒ずくめのバイクスーツに身を包んだ女性(トリニティー)が、とある建物に侵入し、破壊工作を試みるところで、これまた黒ずくめのスーツとサングラスの男たちに追われます。逃げるトリニティーは、仲間に誘導されながら、なぜか電話ボックスに逃げ込みます。

え!?と観客が思っていると、遂に黒づくめの男たちが追いつき、彼女が受話器に向かって話しているところへ、銃口を向けて銃を発砲!でも、彼女は受話器に吸い込まれるようにフッと姿を消してしまいます。

一方、主人公のトマス・アンダーソンはニューヨークの会社で働くコンピュータープログラマー。でも彼には裏の顔があって、実はコンピューターハッカー ネオとして凄腕でもありました。

しかし、ある日会社で仕事をしていると、突然、見知らぬ者から警告のメッセージが届き、疑心暗鬼でデスクから逃げ出すと、あの黒づくめの男たちが現れます。

逃げるアンダーソンを捕まえ、尋問を行ってくる謎の男たち。

アンダーソンは、トリニティーたちのおかげで救出されるのですが、モーフィアスという謎の男を紹介され、その男はアンダーソンに、『この世の本当の姿』を教えられるのです…

何度も言いますけど、この映画は、そのアイデアはもちろん、あらゆる面で、よく出来た作品だと思います。

確かに、この映画が出てきたときは、特殊撮影の技術と表現力に誰もが驚かされましたが、そういった娯楽としても楽しめるし、自分の身の回りの出来事をフト考えさせられる面もあって面白い。

でも、最近の事件を見てると、現代社会の危うさを感じて、さながらマトリクスのよう。

十代の少年少女だけでなく、僕達大人も、しっかりと現実を見つめて生きていかないと、甘美な虚構の世界を現実だと思ってしまうと大変なことになってしまうでしょう。

彼らの事件を、単に少年法や少年犯罪、家庭教育という今までの尺度で見てたらエライ勘違いをしてしるのかも?

彼らを救うためには、みんな一人一人がネオのように現実を見つめて、地味でもしっかり生きていくことをせんとあきません。

人生、辛くてシンドイのが当たり前!汚くて、理不尽なことが多いのが現実。

だから”生きる”んです。

だから”生きる”こと自体が”スゴイ”ことなんです。

死んだらあきません。死んだら終わり。ましてや、人を殺すなんてとんでもない!

どうせ、最後はみんな死ぬんですから、何も恐がる必要もないし、それよりも”生きる”ことをもっと頑張らんと!

もっと粘っこく、とにかく”生きる”

”頭”で生きるんではなくて、”心”で生きんと!

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2006年8月27日 (日)

スーパーマン~リターンズはいかに?~

Photo_41 スーパーマン

誰もがご存知のアメリカンコミックスのヒーロー。

でも、今回ご紹介する作品は28年前に、初めて実写化された作品。

1978年の作品で、監督はリチャード・ドナー。オーメンやリーサル・ウエポンの監督として有名です。

そして、音楽はジョン・ウイリアムズだったんですね。知りませんでした。このスーパーマンの制作の前年1977年には、あの『スターウォーズ』の音楽を担当している泣く子も黙る巨匠です。

道理で、この映画の音楽もスターウォーズに似てるなあと思いました。(^0^;

さすがの巨匠も、前年のスターウォーズのイメージから抜け出せなかったんでしょうか?

出演は、クリストファー・リーブの他、マーロン・ブランドがスーパーマンの父親役、ジーン・ハックマンがスーパーマンの敵役で登場します。

さて映画は、惑星クリプトンで三人の反乱者を罰するところから始まります。

その裁判を進行しているスーパーマンの父(ジョー=エル)は、反乱者を罰するものの、惑星クリプトン自体が破滅寸前にあることが気がかりでなりません。

惑星からの脱出を提案するものの、誰からも相手にされず孤立が深まるばかり。そして、遂に自分の子供カル・エル(後のスーパーマン)だけでも助けるために、カプセルに入れて脱出させます。

その時に選んだ星が我が『地球』。

そして、1951年、アメリカの片田舎の草原に落下し、たまたまそこを通りかかった老夫婦に拾われます。

ただ『拾われる』と言っても、隕石のような落ち方をしてきた横をトラックで通りかかったのですが、慌てて車を停めて近寄ってみると、隕石のような中から小さい子供が現れる!!

老夫婦には子供がいなかったこともあり、その子を育てようと決意するのですが、まあ冷静に考えれば、隕石の中から裸で出てきた子供を育てるかあ~と思いますけどネ。しかも、いきなり子供がトラック持ち上げてるから、またまたビックリ!

ホンマ、アメリカ版桃太郎みたいです。

この時にスーパーマンを拾った夫婦の名前が、クラークで、子供にはクラーク・ケントと名づけます。

それから15年が経過し、クラーク・ケントも18歳になるのですが、何せ、普通にしてるだけで、『スーパー』なわけですから、当然、誰からも相手にされず、逆に気味悪がられてしまいます。

ちなみに、この高校生の時に、自分の力を自分に嫌がらせをする友達に見せつけてやりたくて、列車の横を走っていくシーンがあるんですが、その時に偶然、その姿を見かけたのが、後にスーパーマンの恋人となるロイス・レーンという設定。

そして、自分を育ててくれた父親も亡くなり、悲しみに暮れるケントは、物置から不思議な光を放つクリスタルの棒を見つけ、自分が旅立たないといけない運命にあることを知ります。

(このあたりのシーンを見てると、なんか『かぐや姫』みたいなんですよねえ)

年老いた育ての母を置いて、北極(?)に向かうケント。(なんか、このあたりの話の飛び方もコミックならでは…って感じです。)

北極に来たケントは、そこで、持っていたクリスタルの棒を放り投げます。すると、クリスタルの棒に囲まれた要塞のようなものが現れ、生みの父であるジョー=エルが語り始めます。それから、今までの様々なことを子供に伝えるため、地球時間で12年の歳月が経過し、30歳になったクラーク・ケントは、いよいよデイリー・プラネット社に入社し、ロイス・レーンとも出会うことになるのです…

と、ここまで書いてきてもお分かりのように、この作品は、初めてスーパーマンを実写化させたということもあって、アクションよりも、スーパーマンが登場するまでを中心に描いてる感じです。

なので、思ったほどジーン・ハックマンも印象に残らず、アクション映画として期待してしまうと、ちょっと厳しいかも?です。

特に、映画の最後のほうは、正直、『それはアカンやろ!』と思うようなシーンも出てくるのですが、まあそれもご愛嬌ということで。誰もが知ってるスーパーマンの『なあ~るほど』知識を得るには、面白い作品だと思いますよ。

でも、いつもこういうアメリカの映画を観て思うのが、役者さんの頑張り!。

正直、今の僕らから見れば特撮部分はショボイと思うでしょうし、基本のストーリー自体がアメコミで荒唐無稽な部分も多いだけに、下手すると『お子様向け』映画になると思うんですが、それを観れる映画にさせてくれている大きな要因は『役者の演技のリアリティー』のような気がしますねえ。

これは、本当にいつも感心します。こういう映画の登場人物やストーリーであっても、あたかもそんな人物がいるかのように思わせるところがスゴイと思います。

あれって、なかなか出来ないですよ。実際、日本の映画を観てて、失望させられるところがそういうところの違いですねえ。(まあ、単に英語やからそう感じるだけのことかもしれませんが…)

映画の予告編を観るがぎり、現在上映中の『スーパーマン リターンズ』も、この作品のリメイクのようですけど、どうなんでしょうね?

ちなみに、スーパーマン リターンズの監督はブライアン・シンガーで、『X-MEN』シリーズの監督として知られてますが、X-MENでは、リチャード・ドナーが製作総指揮をしているところなんかハリウッドの人脈を感じます。

もう一つ、ちなみに、日本では、この1978年の作品は1979年に上映され、配給収入は28億円で洋画部門1位!に輝いたものの、第2作以降、上映の度に人気は低下していってしまいました。

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2006年8月23日 (水)

東京物語~家族って?~

お盆休みも先週で終わりましたが、普段は都会で一人暮らしをしている人は実家のご家族に会ってこられた人も多かったんではないでしょうか?

日本恒例のお盆の帰省ラッシュで、余計に疲れたあ~って人も少なくないでしょうね。

僕も経験がありますが、親と子というのは不思議なもので、一緒に暮らしていると反発することも多く、でも別れて暮らしてみると妙に寂しくなったり…

かと言って、顔をあわせると、やっぱり疎ましく感じたり…。

特に、自分が成長して、仕事に就き、やがては別の家庭や生活を築くようになると、一緒に暮らすこと自体が、なかなか難しいのも現実だったりしますよねえ。

今は昔と違い、みんなが一緒のリズムで生活するってことが無いから、余計に難しいんでしょうね。それこそ、僕達の親の世代は親と子供が一緒に暮らすことは当たり前だったでしょうし、だいたいみんなが同じような時間に起きて、同じような時間から働き始めて、同じような時間に仕事が終わる…今みたいに、夜通し空いてる店も無ければ、同じ家にいてもネットやテレビ、携帯電話、メール、ゲームなどそれぞれが別々の時間を過ごすって感じではなかったですからね。

家族みんなでテレビの前に座って、『8時だよ、全員集合!』を観て大笑い…なんてことは今では夢物語かもしれません。

でも、この映画を観ると、すでに戦後のこの時期から家庭の崩壊と言われるのは始まってたのかなあ…と思います。

Photo_40 ご存知、東京物語(1953年の作品)

日本が世界に誇る名作の一つで、あまりにも有名なので、観たことの無い人も名前は聞いたことがあるのではないでしょうか?

監督は巨匠、小津安二郎。

出演陣も豪華で、笠 智衆、杉村 春子、原 節子、東山 千栄子、山村 聡など。

この映画は、尾道に住む田舎の両親が都会で暮らす子供たちの様子を見に来る物語ですが、冒頭のシーンでは尾道ののんびりした風景の中で、東京の子供達に会いに行く支度をしている年老いた両親(周吉ととみ)の姿が映し出されます。

荷物の中に入れたはずのものを巡っての老夫婦の何気ないやりとりを映しながら、老夫婦が生きる『ゆっくりした時間の流れ』を表現していきます。

老夫婦には、医者の息子と、美容院を営む娘が東京に住んでいて、次のシーンでは一転して、東京に暮らす医者の息子の家の朝の慌しい風景が映し出されます。

このシーンは、小津監督の映画の特長を説明する際に必ずと言っていいほど引用されますが、日本家屋の閉鎖的な間取りを、ローアングルでカメラを動かさず、人の動きだけで画面に奥行き感を出していきます。

せっかくの両親の上京なのですが、肝心の長男と長女は、どっちが面倒を見るか?でちょっとした譲り合い(?)。

第三者的に見れば、せっかく親が来たんだから、もっと優しく接してあげればいいのにと思うところですが、当の本人たちは何も両親が嫌いなわけでもなんでもないんです。日本がようやく貧しい時代から抜け出しつつある時代でもあり、子供たちは自分たちの生活を守るので必死なんです。

そんな老夫婦に対して、一人親身になって世話を見てくれるのは、次男の嫁(紀子)だけでした。ただ次男の嫁と言っても、次男は戦死していて、戦争未亡人の生活を送っているんです。老夫婦は、そんな彼女を不憫に思い、『息子のことは早く忘れて、結婚してくれていいんですよ。』と言いますが、彼女は嫌な顔一つせず、老夫婦を東京見物に連れていくなどして面倒をみます。

さすがに、長男と長女もそんな両親に申し訳ないと思ったのか、両親に伊豆の旅行をプレゼントします。これで両親は喜ぶだろうと善意でやったことなんですが、実際には、誰もついていかず、しかも伊豆で予約した旅館は、若い人ばかりで老夫婦は寝ることさえ出来ない状態。

そんな決して恵まれた東京滞在ではありませんでしたが、老夫婦は子供たちの元気な生活に満足し、やがて尾道の家に戻ることにするのですが…

この映画は、本当にイイですよ。イイ(^0^V

小津監督の映画というと、『小津調』と言われる言葉があるぐらい、小津監督の美意識が映画の至るところに表現されているんですが、この映画もまさしくそう。

例えば、この映画では、登場人物が何度か団扇で扇ぐシーンが出てくるんですが、その扇ぎ方も、微妙にそのシーンの登場人物の心理状態によって変えてるようでしたし、セリフの間合いや役者の立ち振る舞いなど、本当に映画の隅々にまで『小津監督の気心』が感じられます。

小津監督の映画と言えば、役者を正面から映すようなカットも特徴的ですが、あれも実際には結構難しいと思うんですよ。一つ間違えば、バカみたいに映るし。

それと小津監督の映画と言うと、みなさんのイメージとしては、『日本的で上品な映画』とか『のんびりしている』というのが多いんではないでしょうか?

確かに上品な作風ではあるんですけど、決してよくあるホームドラマのような、ゆるい演出ではないんですよ。

この映画でも、セリフや画面は荒々しさや、激しさは無いんですが、作品を描いている視線は本当に鋭い。

戦後の日本の家庭が直面する厳しい現実を真正面から描いていて、たとえ登場人物が死ぬシーンであっても、すごく淡々と描き切ってしまう。

あのあたりが、スゴイ。って僕は思ってしまいます。

小津監督は黒澤監督の先輩にあたるような人で、実際に戦地にも出兵されていた経験もお持ちなのですが、そういう人生の表と裏を全て見たうえで、自分の美学にこだわる姿勢には本当に頭が下がります。

黒澤監督も晩年はこの『東京物語』を何度も観て涙を流しておられたそうです。

是非一度、余計な先入観をもたずに観て欲しい作品の一つであり、折に触れて何度も観て欲しい作品です。

日本にこんな素晴らしい作品があるのだということを是非知ってください。

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2006年8月18日 (金)

シリアナ~世界情勢は複雑怪奇なり~

前回のブログでは、アラビアのロレンスを取り上げながら、現在の『テロ』騒動を違う側面から自分なりの、『ちょっと危ない』考えを披露しました。

くどいようですが、テロを肯定する気はさらさらありませんので。

しかし、現在の国際情勢は本当に複雑というか、ここにきて一気に騒がしくなり始めてるような気がします。

日本にいると、中東やアフリカ、中南米の政情不安も対岸の火事のようについつい思ってしまいますが、ここにきて、韓国や中国、ロシアと日本の国境をめぐる争い(言わば資源獲得競争)が目立つようになってきましたし…

こういった次元の話は、僕も含めて今までの日本人は世界でも類まれなる世間知らず(?)でしたが、これからはそうも言ってられないでしょうね。(アメリカ人も対外世間知らずだとは思いますけどネ)

Photo_39 シリアナ

2005年のアメリカ映画。

監督は『トラフィック』で、アカデミー脚本賞を受賞したスティーブ・ギャガンで、この作品でも脚本を担当しています。

出演は、ジョージ・クルーニー、マット・デイモン、ジェフリー・ライト他。

この映画の原作は、元CIA工作員の告発本『CIAは何をしていた?』で、この映画自体もかなりドキュメンタリーっぽい作風です。ちなみに、タイトルの『シリアナ』とは、CIAが実際に使っていると言われる『イラン、イラク、シリアの三国が一つになるという事態を想定したコードネーム』だとか。

まず、最初に一言。

正直分かりにくい映画ではあります。

分かりにくくしている要因は、作品の中に登場してくる様々な人間関係や国際情勢といったこともありますが、一人の主人公を軸にして話を進めるというよりは、複数のストーリーを平行して進行させながら、シーンの切り替えもつながりが分かりにくいことも影響しているように思います。

映画の背景自体が複雑なだけに、説明をするのも難しいのですが、複雑なストーリーを出来る限り簡単にお伝えすると…(この映画はホンマに分かりにくくて、人によったらストーリーが微妙に異なる説明をしてたりするので、以下は自分なりの解釈でまとめています。)

舞台は中東のある国。

夜明け間も無い時に、大勢の出稼ぎ労働者がバスに乗り込み油田に向かっていきます。

ワシームもパキスタンから父親と二人で出稼ぎに来ていたのですが、石油の採掘権が中国に渡ったために、仕事が無くなりあっさり解雇されてしまいます。次の仕事が見つからず途方に暮れる二人。夢も希望も失ったワシームにとって、地元のイスラム神学校が唯一の救いであり、いつしか一人の男に目をかけられ、聖なる任務が言い渡されます。

CIA工作員のボブ・バーンズはテヘランで、武器商人にアメリカ製のミサイルの弾頭2発をエサにして武器商人を爆殺することに成功しますが、現場で出会った謎の男と共に消えたミサイル1発の行方が気がかりになり、本部にその件を問合せますが、特に取り合ってもらえません。自分の分からないところで、何か別の大きな動きを感じるボブ。息子が大学生になることも考えて、そろそろデスクワークを考え内勤を希望しますが、口が災いして大事なミーティングで失態を犯してしまいます。そんな中、上司から『ボブにしか出来ない仕事』で、それが成功すればボブの望みどおりのポストが与えられるという話がやってきます。

ベネット・ホリデイは野心溢れる弁護士です。そんな彼の元に一つの大きな案件が上司から持ち込まれます。アメリカ最大の石油企業コネックス社と、急速に勢力を伸ばしつつある同じくアメリカの石油企業キリーン社の合併話を担当することになったベネット。彼の任務は、アメリカの司法省よりも先にキリーン社の石油採掘権の裏にある疑惑を調べ上げ、コネックス社にとって有利な条件を結ばせること。アル中の父親は、そんな息子の姿を苦々しく見ています。

ブライアン・ウッドマンはスイスのジュネーブにあるエネルギー商社のエネルギーアナリストです。ある日、アラブの石油王のパーティーに子供や妻を連れて出席するように、会社の上司から勧められます。しかし家族サービスも兼ねたパーティーへの出席が、思わぬ不幸を招きます。不慮の事故で息子を失うブライアン。失意に暮れるブライアンに対し、事故の責任を感じパーティーを主催した石油王の息子ナシール王子は、彼を相談役に取り立てます。ナシール王子との仕事に情熱を傾けていくあまり、息子の死の悲しみから解放されていくブライアンを不安気に見つめる妻。

そして、次期国王として有望視されるナシール王子と無能な弟メシャール王子との後継者争い。その争いを利用して石油の利権を確保しようとするアメリカ石油企業、それに協力するCIA。

これらの複数の登場人物の話が、同時進行で交差しながら進んでいくのですが、この映画をまだ観られていない方は、このあたりのことを頭に入れて観たほうがいいかも?です。

この作品は確かに分かりにくい映画なのですが、こういう現在の生々しいテーマを題材にして、生真面目に作ろうとするアメリカ映画界が『力強いなあ』と思うと同時に、華やかなハリウッド映画とは異なるアメリカ映画の側面を見たような気がして、『アメリカ映画の奥深さ』を感じます。

ジョージ・クルーニーも、今までとは違う演技を見せてくれて、なかなか良かったのではないでしょうか?CIAの工作員という、特殊な任務につく男の強い面と弱い面が表現されていて、そのあたりは興味深かったです。アカデミー賞で、助演男優賞を獲得したのも頷けます。

第二次大戦中のその昔、日本の平沼騏一郎首相が犬猿の仲と思われていたドイツとソ連の『独ソ不可侵条約締結』を指して、『欧州情勢は複雑怪奇なり』と声明を発表し、総辞職をされたようですが、今も日本人の目から見れば、『世界情勢は複雑怪奇なり』ってところかもしれません。

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2006年8月15日 (火)

アラビアのロレンス~テロリストとレジスタンスの違いって?~

今日はご存知のように終戦記念日。朝から小泉首相の靖国参拝で、戦後61年目を迎え何やら雲行きのおかしな具合になっているのが気がかりです。

それについ数日前にイギリスで起こった大規模なテロ計画の未遂事件。もし実行されていれば、9.11のテロをはるかに上回る惨事になっていたと思われるだけに、何はともあれ未遂で終わり良かったの一言です。

日本でもちょうどお盆休みの始まりとも重なっていただけに、影響を受けた人も少なくないかもしれませんね。

それにしても、最近本当によく耳にするようになった『テロ』。これって本当のところはよく分からない感じがします。

僕自身、決して『テロ』と呼ばれる行為を肯定する気はありませんし、戦争はもちろんのこと、民間人が巻き込まれるような行為は卑劣としかいいようがないですし、決して許されるものではないでしょう。

でも、一方で民間人が巻き込まれない戦争というのがあるんでしょうか?

例えば、現在も進行しているイラク国内の紛争や、イスラエルのレバノンへの攻撃…数え上げればキリがないほどの戦闘で、民間人が巻き込まれたことがないものはあるんでしょうか?サッカー日本代表のオシム監督の故郷サラエボで、内戦時にホテルの屋上から民間人めがけて銃を撃つ通り(スナイパー通り)が存在した事実…これはどう理解したらいいんでしょう?

確かに、非戦闘員と呼ばれる民間人が巻き込まれるのが戦争の常であり、避けようとしても避けれないもので、やむをえないものだともいえるでしょう。

では、イラクやレバノンで死んでいく一般の人々は『やむをえない犠牲』として片付けるべきなんでしょうか?『戦争』と呼ばれる行為の中では許されるんでしょうか?戦車や戦闘機、ミサイルを使ったときは仕方ないということになるんでしょうか?

そもそも、イラクにしてもアメリカがイランへの対抗措置として軍事援助をしていた国ですし、ビン・ラディンもアメリカが育てたような人物。言わば、自分がまいたタネ。

それが、自分達にとって都合が悪くなってくると攻撃していき、相手が反撃してくると『テロ』と位置づけて自分たちの行為は棚上げにし、相手だけを一方的に悪者扱いにしてしまう。

これってどうなんでしょう?

もちろん、民間機や地下鉄、バスに爆弾を仕掛けることは良くないのは当然ですが、彼らにそれ以外の選択肢は与えられているんでしょうか?

アメリカやイギリスは『テロリストと交渉する気はない』って言いますが、これって一見ナルホドとも思う気がしますが、どこか問題をすり替えられてる気がします。

今やアメリカの軍事力に対抗するには、他の先進国でさえ戸惑うほど強大なのに、アラブのテロリストと呼ばれる人が、話し合いの場も奪われてしまったら、どうやって自分たちの立場を主張しろと言うんでしょう。

今回のテロ未遂でも、十代の若者がいたようですが、彼らの身内で戦闘の犠牲になった人々がいた時に、それに対抗する手段として、テロ以外にどういった方法があるんでしょう?

ましてや大半のメディアは、完全にアメリカを中心としたいわゆる先進国からの情報の一方通行で流すのみ。

テロは良くないですが、そもそも僕達がどれほど事態を把握してるんでしょう?

ここにきて、ハリウッドでは9.11テロを題材にした映画の上映が始まりますけど、これもどこかプロパガンダ臭い。それに一部の伝えるところでは、9.11のテロ自体が多分に疑惑が多いようですし…(この疑惑が本当だとしたら、アメリカはもう国家とは言えないほど)

Photo_38

アラビアのロレンス

ご存知の方も多いと思いますが、1962年のイギリス映画の名作。

監督は『逢びき』『旅情』『戦場にかける橋』などを手がけたデヴィッド・リーン。

出演はピーター・オトゥール、アレック・ギネス、オマー・シャリフ、アンソニー・クイン他。

舞台は第一次大戦が勃発した1914年のアラブ。当時は欧州列強と呼ばれる国々が植民地獲得にしのぎを削っているときであり、ドイツはトルコを支援し、イギリスはトルコの抵抗勢力である遊牧民のベドウィン族を支援している時代でした。

映画は主人公のT・E・ロレンスがバイクの事故で亡くなるところから始まります。葬儀に集まった各界の人々の評価は賛否両論で、英雄と言う人もいれば、どうしようもない愚か者として相手にしない人もいます。

アラビアのロレンスと呼ばれたT・E・ロレンスとは一体どんな人物だったのか?英雄なのか?単なる愚か者なのか?

第1次大戦が始まって2年が経過した1916年、ロレンスはカイロの陸軍司令部に勤務していましたが、どこか人を食ったような態度で決して上司からの評価も良くありませんでした。しかし、アラブの情勢に詳しく、トルコの圧政に苦しむアラブに同情的なロレンスは、ドイツとトルコの同盟にくさびを打つための現状調査の為、反乱軍の指導者ファイサル王子の元に派遣されることになります。

カイロから砂漠を渡ってファイサル王子のもとを訪ねるロレンスですが、ドイツの支援で近代兵器を整えたトルコ軍の圧倒的な優位を目の当たりにして、起死回生の秘策をイギリス軍の許可なく行うことを決意します。

トルコ軍の難航不落の要塞アカバを、たった50人で攻め落とすことを王子に誓うロレンス。しかし、それは作戦とは言うには、あまりにも無謀ともいえるものでした。

アカバは海に面した要塞で、内陸は広大な砂漠に面しているので、兵力は海からの攻撃に対して整えられており、内陸の砂漠から攻めることが出来れば確かに相手の不意をつくことにはなるのですが、その砂漠を渡ることは『死』を意味するともいえるほど過酷なものだったのです…

この映画を通じて、ロレンスという一人の英国人がアラブの人々の中で、まさしく孤軍奮闘して一時期は英雄としてもてはやされるまでに至ります。

しかし、結局、そのロレンスの純粋な思いや行為も、列強のパワーゲームや多様なアラブ民族の思惑の中では、国際政治のコマの一つでしかなかったようなむなしさ…

映画の最後で、ロレンスは大佐にまで昇進し本国に帰ることになりますが、アラブに来た時とは打って変った憂鬱な表情、そのロレンスをたたえるイギリスやアラブの首脳、兵士たち…

ロレンスは圧倒的不利な立場にいたアラブの側に立ち、トルコ軍に対してあらゆる破壊攻撃を行っていきますが、これはテロなんでしょうか?

映画を観るかぎりは、鉄道を破壊することが多く、列車に乗っていた人々は殺され、金銀は部族の報酬として略奪していきます。そして、映画の後半では、あれほど人を殺すことを毛嫌いしていたロレンスが、とうとうトルコ兵に対して大虐殺ともいえる行為を犯してしまいます。

かつては、フランスのドゴールやユーゴのチトーもドイツの圧政に抵抗したレジスタンスの一人でした。彼らは民間人を巻き添えにした暴力を行うことは無かったのでしょうが、一度起こった争いの中で、そもそもそんなガイドラインのようなものをひくことが出来るんでしょうか?

特に第1次大戦や第2次大戦の時とは比較にならないほどの軍事力と情報管理能力、資金力を保持したアメリカがもし間違っていたら?

僕達がメディアで伝えられている情報が実は本当でなかったら?

果たしてテロリストとレジスタンスの違いを僕らは認識できるんでしょうか?

日本もどんな理由があったにせよ、中国や朝鮮などのアジアの国々に侵攻し、そこでは民間人も含めて大勢の人が亡くなりました。

近年は、相手をテロと単純に位置づけて自分たの攻撃を正当化したり、かつての日本軍の『侵攻』を『進出』として言葉を変えてみたり、何か物事の本質を言葉で置き換えてしまってるような気がします。

『言葉のすり替え』に惑わされず、その本質を見抜く努力を一人一人がしていかないといけない時代になってきたような気がします。

戦争の始まりは、いつの時代でも、そういう何気ない言葉のすり替えで起こるのですから…

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2006年8月 6日 (日)

パッチギ~イムジン河を越える日~

61年前の8月6日、日本の広島に世界で初めて原子爆弾が落とされました。

僕は大学時代を広島で過ごしたので、実際に原爆ドームも見ましたし、大学の授業で被爆者の方の話も聞いたことがありますけど、原爆は本当に悲惨。

もちろん、戦争ですから、悲惨でない戦争などないんですが、原爆というものの非人間性は言葉で表現できるものではないです。

原爆を日本に投下したことに対する評価は、残念ながら今尚アメリカ国内でも正当化する動きが強いようですが、当時の世界情勢や日本軍の破滅志向的な戦い方を見れば、単純に原爆を投下したアメリカだけを批判できない面もあるように思うものの、少なくとも言えることは、61年前には2発しか無かった原爆が、今では無数に存在するということ。

日本は世界で唯一原爆を落とされた国ではありますが、同時に思ったのが、原爆で被害にあったのは決して日本人だけでは無かったのではないか?ということ。

当時は既に大勢の朝鮮半島の人々が日本国内に連れてこられていましたが、彼らの中で原子爆弾の被害にあった人や空襲で被害にあった人はどれぐらいいたんでしょうか?

ついつい日本人だけの被害を考えてしまいがちですけど、実際には朝鮮や中国、韓国の人々も多くの人が犠牲になられたんだと思います。

この5年ほどで、韓国とは交流が盛んになりましたけど、考えてみると、韓国や中国、朝鮮の人との交流が本当に無いままここまで来てしまったと思いますし、在日の人に対してもどこか距離を置いて接してきたし、見て見ぬフリをしてきたようにも思います。

心のどこかで、自分たち日本人は朝鮮人や中国人から嫌われてるという意識をもってたり、自分たちは経済大国の一員だと思ってどこか見下してたり…同じ日本という国に住みながら、お互いがお互いの存在を忘れようとしているような関係。

Photo_37 『パッチギ』って映画は観られましたか?

2004年の日本映画。

監督は井筒和幸。

出演は塩谷瞬、江沢エリカ、高岡蒼佑他。

この映画は、結構話題になっていて観た人も多いかもしれません。

1968年の京都が舞台。

当時は学生運動も盛んで、何かと騒がしい時代でしたが、音楽ではビートルズの影響を受けて日本でもグループサウンズブームでした。グループサウンズの演奏が始まると、卒倒する女性が大勢出てくるほどの大人気。

京都府立東高校の2年生、康介と紀男は、そんなグループサウンズブームにあやかって少しでも女の子にもてたいと思い、紀男の発案で『マッシュルームカット』にしてみるのですが、これが…大失敗。

そんなお気軽な日々を送る二人ですが、ある日、京都に修学旅行にやってきた長崎の高校生と地元京都の朝鮮高校の争いに巻き込まれてしまいます。

康介と紀男のクラスの教師が共産主義かぶれだったことも災いし、二人は朝鮮高校に親善サッカー試合の申込に行かされるのですが、間抜けなことに、そこでも相手の番長グループに見つかってしまいます。

必死に逃げる二人ですが、そんなとき康介は音楽教室でフルートを吹く一人の女子高生キンジャに目がとまり一目ぼれしてしまいます。

でも、キンジャは京都朝鮮高校の番長アンソンの妹だったのです。

キンジャのことが忘れられない康介ですが、ある時紀男と訪れた楽器屋で偶然知り合った男性坂崎にキンジャが演奏していた曲のことを教わります。

曲名は『イムジン河』。日本ではフォーク・クルセダーズが演奏していた曲ですが、発売中止となっており、元々は朝鮮の人々がイムジン河を挟んで北と南に分断された思いを歌った曲であることを教わります。

そして康介は、キンジャと仲良くなりたい一心で紀男にフォークバンドの結成を呼びかけるのです…

この映画は、『イムジン河』という実在の曲をベースにして、激動する時代の中で必死に生きていく朝鮮の高校生と日本の高校生を描いた青春映画ですが、一人一人の役者が生き生きしていて、理屈抜きで登場人物に引き込まれていく映画です。

ちょっと演出的には漫画っぽいところを感じる部分もあるかもしれませんが、一人一人の登場人物像がしっかり描かれてるから、観てても軽くなくて、妙なリアリティーを感じてしまいます。

『ゲロッパ』という作品でもそうでしたが、こういうちょっとマンガっぽいキャラクターに生命感を与えるのは井筒監督は巧いですねえ。

朝鮮と日本。

こんなに近い国どうしなのに、長い間お互いを遠ざけあってきました。

2002年のサッカーワールドカップ辺りから一気に韓国との交流は盛んになり、数年前は韓流ブームなるものまで起こりましたが、朝鮮とは今もなお多くの問題が残っています。

朝鮮とは、先日のミサイル問題や拉致問題など多くの問題が残されていますが、同時に僕達日本人も、朝鮮や中国を含めたアジアの人々に何をしてきたのか?ももっと知る必要があるのかもしれません。

お互いの過去の行為を憎しみ、攻撃しあうだけでは、何の解決にもならんですし。

と同時に、この映画の主人公康介のように、キンジャと友達になりたくて、必死で朝鮮の曲を覚え、朝鮮語を覚え、そして怖くても相手の懐の中に入って交流を求めていき、傷つきながらもお互いを理解しあっていく。そんなことが大切なんやろうと思います。

人間というのは、いつの間にか相手との間に壁を作ってしまいがちですけど、お互い同じ時代を生きてる人間なんですから、もっと心と心でぶつかっていかないと、『イムジン河』のような悲しい曲が至るところに生まれることになってしまいますもんね。

特に今の時代っていうのは、情報ばかりが行き交って、リアルなものが分かりにくい時代なので、一人一人が自分の五感で感じたものをしっかりとらえていかんと、本当に大切なことを見落として、いつの間にか『新たなイムジン河』が出来てしまう…ってことになりかねません。

いつの日か、一人一人の小さな勇気で世界中のイムジン河を越える日が訪れますように。

ちなみに『パッチギ』とは、ハングル語で『突き破る、乗り越える』という意味らしいですけど、『頭突き』という意味でもあるようです。

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2006年8月 3日 (木)

ミリオンダラー・ベイビー~亀田選手へのエール~

今日は、昨日の亀田選手のボクシングの試合結果の件で、多くの人が盛り上がってたのではないでしょうか?

僕は試合自体は見ておらず、ネットや新聞で内容を確認したぐらいですけど、試合を中継したTBSには5万人!!の人から電話が殺到したみたいですね。多くは、試合中継が長すぎるということと、試合結果に対しての不満みたいですが、試合結果に対してTBSに文句言ってもねえ…(^_^;

多くの人が試合の結果に満足していないようですけど、ある元ボクサーの話によれば、今回の試合結果というのは微妙な面はあるものの、特に問題視するようなものでもないとか…

というのも、まず今回の試合が通常のクラスより1ランク下のライトフライ級で戦ったことの影響は大きいみたいです。1ランク下のウエートで戦うということは、当然通常よりも厳しい減量をしないといけないわけで、その結果、パンチにも通常の迫力が欠け、1ラウンド目でも自分が思っている以上に相手のパンチが効いたためにダウンをしたのではないか?ということです。

確かに、そういうこともあるのかも?と思いましたが、一方で思ったのが、亀田三兄弟が多分にメディアによって作られたボクサーであるということ。

これは、決してあの兄弟に力があるとか、無いとかということではなく、歴代のボクサーの中でも、こんな形でチャンピオンになる前から注目され、初めてのタイトルマッチで平均視聴率が40%を超える!なんて、有り得ない話ですから…

最近は空前の格闘技ブームということもありますが、格闘技だけでなく、女子ゴルフやサッカーも含めて、実際の競技の内容とは別のところでメディアが勝手に作り上げてるような気がするんですよねえ。

だから、僕もなんといってもブルース・リー世代ですから、子供の頃はボクシングや格闘技をテレビで観てたんですけど、最近の格闘技の試合って全然観る気が起こらないんです。

なんか本質とかけ離れているというか…

もちろん、プロであれば、観客を意識したショーマンシップは必要だと思いますし、僕らの子供の頃に猪木とアリの異種格闘技を夢中で観てたこともありました。アリなんて、ある意味メディアへのアピールが巧いボクサーでしたし。

でも、僕が思うに例えば、ボクシングなんて、一見荒々しいスポーツに見えますけど、実はスゴク繊細な感じがするし、『相手を殴る』という人間の本能のような部分をむき出しにして戦うスポーツだけに、ボクサーというのはナイーブな感性を持った人が多いように思います。

だから、今のテレビ中継のように、表面的な華やかさだけを誇張するような手法がどうも好きになれなくて…

そんなボクシングの繊細さを感じさせてくれる映画が、コレ。

Photo_36 ミリオンダラー・ベイビー。

2005年のアメリカ映画。

監督はご存知クリント・イーストウッド。

脚本はポール・ハギス。

出演は、クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン、ヒラリー・スワング他。

この映画の原作は短編小説のようですが、モーガン・フリーマンが親友でもあるクリント・イーストウッドにこの小説の映画化を勧めたことがきっかけだとか。

舞台はアメリカ ロサンゼルスのダウンタウンにある小さなボクシング・ジム。

そこにはかつてはボクサーとして活躍していたスクラップが住み込みの雑用係として働いていますが、ジムのマネージャーであるフランキーとは自分がボクサー時代にカットマン(試合中にキズの手当てをしてくれる人)をやってもらっていたこともある仲です。

二人のつきあいは20年を超えるほどになりますが、フランキーはトレーナーとしても優秀で数多くの若いボクサーたちを育て上げていきます。

でも、フランキーは決してマネージャーとしては優秀とは言えませんでした。

タイトルがかかった試合であっても、選手の身体を守ることを第一に考えるがあまり、対戦を見送ることも少なくなく、そのために『成功』を夢見る多くのボクサー達はフランキーの元を去って行ってしまうのです。

そんなフランキーを20年以上も見続けてきたスクラップですが、彼もフランキーが止めるのもきかずに試合を強行したために、片目の視力を失ってしまった元ボクサーなのです。

あるとき、フランキーの前に一人の女性マギーが現れます。

『私のトレーナーになって。お願い!』

フランキーは、マギーの必死の願いをにべも無く断ります。

フランキーは女性のトレーナーなどやったことがありませんし、それに彼女はこれまでにプロのトレーナーを受けたこともなく、年齢も31歳。フランキーが断るのも仕方がありませんでした。

しかし、マギーは来る日も来る日もフランキーのジムに現れ、無断でサンドバッグを叩き練習をします。

そんなマギーの姿を見ても、言葉をかけることもなく、無視をし続けるフランキー。

そしてマギーとフランキーの姿を傍らで見守るスクラップ。やがて、彼はマギーにサンドバッグの叩き方を教え、陰ながら彼女をサポートしていくようになります。

ある日、フランキーの教え子であるボクサーの試合が終わった後、フランキーはスクラップとささやかなお祝いをしようとスクラップの部屋を訪れたときに、今日も必死に練習を続けるマギーの姿を見かけます。

マギーに声をかけるフランキー。『いくつになった?』

マギー『32よ。また1年が経ったわ。13歳の時からウエイトレスを続けてね。知ってる?弟は刑務所、妹は不正申請で生活保護、父は死に、母は145㎏のデブ。本当なら故郷に帰って、中古のトレーラーで暮らすべきなの。でも、これが楽しいの。だから、もう年だなんて言わないで!』

マギーの必死で一途な思いを感じるフランキー。その時から、マギーとフランキーの新たな冒険が始まります。フランキーはマギーのトレーナーをすることを引き受けるのです。

フランキーはマギーに条件をつけます。

『何も質問するな!泣き言は聞かん。』と。

嬉しげに、うなずくマギー。

マギーとフランキーの新たな人生が始まるのですが、それは決して平坦な道ではありませんでした。

この映画は、冒頭に流れてきた音楽で早速ヤラレてしまいました。

本当にイイ!

ギターとストリングスの繊細で素朴な音色…この映画全体のトーンを明確に表現していて、本当に良かった!チャップリンの映画音楽のような繊細さですが、実は音楽もクリント・イーストウッドなんですよね。

そして、『ショーシャンクの空に』の時と同様に、モーガン・フリーマンのナレーションで進行していくストーリー。

シンプルなストーリーに、シンプルな音楽、そして役者さんの肩の力が抜けた味わいのある演技…

どれをとっても良かったなあ…僕は、この映画が大好きです!

亀田選手も僕が思うに、本当はスゴク繊細で家族思いの子なんではないでしょうか?

一見、テレビ映りだけを見てると、野蛮な印象を持つかもしれないですけど、本当はその逆だと思います。でも、自分が長男としてまず注目される必要があると思ってるでしょうし、そのためにはメディアも利用していく必要がある。そして、テレビで注目されるには、実力とは別に自分のキャラクターを売っていく必要がある。

そんな思いで必死で自分の役割を演じてるような気がします。

かれは、やはりそういう繊細な神経をもったボクサーの一人のように思いますし、それだけに、周りの騒音に惑わされず、前へ進んでいってほしいです。

それは決して楽な道ではないでしょうが…

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2006年8月 1日 (火)

TAKESHI'S~感覚の映画~

Takeshis TAKESHI'Sは、皆さん観られたでしょうか?

北野監督の2006年の作品で、ベネチア映画祭にも出品されたものの、賛否両論というより、ほとんどの人が『分からない!』って思われたのかもしれませんが…

出演はビートたけし、美輪明宏、岸本加代子、京野ことみ他

この映画に関しては、ストーリーを説明しても、仕方ないように思いますけど、ビートたけしと彼に瓜二つでタケシファンで役者志望のコンビニ店員の物語。

二人の空想と現実を織り交ぜた展開で映画は進行していきますが、北野監督自身がインタビューなどで述べていたように、通常の映画のような順番で映画のシーンを並べずに、前後を入れ替えてみたり、間を飛ばしてみたり…観客が頭の中で編集をしながら観ないといけないような作品。

それだけに『分かりにくい!』という人が多いのも当然でしょう。

加えて、この映画では、一人で複数の役を演じるのは北野監督だけではありません。岸本加代子さんや、京野ことみさん、大杉漣さん、渡辺哲さんなどなど。しかも、ほとんど顔は同じなので、余計観ている人は頭が混乱するでしょうね。(特に外国の人なんか、そうでなくても見分けにくい日本人の顔が余計分かりにくかったのでは?)

でも、僕はこの映画って思ってたより面白いなあって感じました。

ある種、映画的というか。頭で考えてみるのではなくて、感覚で観れる映画という感じがして、昔のフェリーニ監督の『8 1/2』なんかを思い出しました。

北野監督がフェリーニ監督の『8 1/2』を意識したかどうかは分かりませんが、あの映画もフェリーニ監督が主人公を映画監督にして、その映画監督の頭の中の空想の世界を描いたような作品で、正直、ストーリー展開を楽しむ映画というより、イメージを楽しむ映画。

だから僕なんか何度か観ましたけど、どれだけストーリーを理解しているか?と言われると…???

でも、妙に頭の中にイメージが残る映画なんです。

今回の北野監督の映画もそんな感じなんではないでしょうか?

特に『座等市』という、北野監督にすれば、超分かりやすい映画を作った後でもあるので、あえてこういう映画を作ったような気もします。

この映画の面白い点は、そういう観客の個々の感覚で楽しめるところの他に、そもそも同じ顔をしていて、どうみても見分けのつかない二人を周囲の人間は認識して接しているところ。

もちろん、服装や仕草、話し方が違うところはありますが、大半のシーンで周りの人間はそれに違和感を感じることなく、接しているところなんか普通の感覚から見るとオカシイですよね。

でも、そもそも芸能界の大物スターであるビートたけしとコンビニ店員の男に明確な違いがあるのか?といえば、実はそんなになくて、単に周りの人間や環境が違いを作っているだけなのかも?とも思ってしまいました。

実際、コンビニ店員があるとき、ヤクザの抗争をきっかけに銃を手にしてから、まるで映画の中のビートたけしのように生き生きとし始め、全くビートたけしと見分けがつかない。

今や世界の巨匠と何かと祭り上げられることが多くなった北野監督。

『でも、所詮、そんなものは世間が作り上げた虚像でしかないんだよ』っていう含みも、この映画には込められているのかなあと思ってしまいました。

北野監督自身は『そんなことまで考えてないよ』って仰るでしょうが(^0^;

考えてみれば、今の僕達が生きているこの社会自身が、何が本当で何が嘘なのか?分かりにくくなっているように思います。

インターネットを通じて、今や世界中の情報が一瞬にして手に入るようになり、メディアを通じて連日洪水のように押し寄せてくる情報の波の中で、何が本当なのか?を見つけること自体が至難の技ともいえます。

多くの人が『情報』という実体の無いものに惑わされ、自分を見失っているのかもしれません。

虚構の世界がリアルな世界のように思われてしまいがちな現代社会。

一時は時代の寵児のように騒がれたライブドアの堀江社長や村上ファンドの村上社長が、一瞬にして崩れ去っていく…

子供や青少年を巻き込んだ異常な犯罪の増加、そしてそういった犯罪が都市部ではなく、田舎でも起こっていることは、何かそういうこととも関係しているのかも?と思ってしまいます。

TAKESHI'Sは決して分かりやすい映画ではないですが、北野監督の感覚に満ち溢れた興味深い映画で、次回作を期待させてくれる作品だと思います。

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