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2006年9月30日 (土)

ウィスキー~ちょっと小粋なウルグアイ映画~

昔、黒澤明監督が『映画は世界の広場』と言っておられたようですが、確かに映画を通じて、その国の人の感性に触れることで意外な発見があったりするものです。

以前にブラジル映画の『セントラルステーション』をご紹介しましたが、今回の作品も南米ウルグアイの映画。

ウルグアイなんて、サッカー以外に僕は知らず、映画なんて全然観たことがなかったのですが、それもそのはず、ウルグアイではこれまでに60本の作品しか作られておらず、2002年までは実質映画産業は存在しなかったとか…

Photo_46 ウイスキー

2004年のウルグアイ映画。

監督・脚本は若干30歳のファン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールの二人。

出演は、アンドレス・パソス、ミレージャ・バスクアル、ホルヘ・バローニ。

2004年の東京国際映画祭やカンヌ映画祭での話題作品。

舞台はウルグアイの小さな靴下工場。

小さな靴下工場を父親から譲りうけた初老の男ハコボは、結婚もしておらず、子供もいません。毎朝、工場の近くの薄暗い店で朝食を食べると、そのまま工場に行き、工場のシャッターを開け、機械のスイッチを入れるといったことを毎日繰り返す日々を送っています。

そのハコボを毎朝工場の前で待っているのが、工場で長く働く中年女性のマルタ。

ハコボがやって来てシャッターが開くと、工場に入っていき、お茶を入れたり、ハコボの手伝いを淡々と済ませていくマルタ。でも、そんなマルタとハコボには、ほとんど会話といったものも無く、ただ毎日を機械的に送るような日々。

そんなある日、ハコボが珍しくマルタに声をかけてきます。

1年前に亡くなった母親の墓石の建立式に弟エルマンを呼ぶことになったが、その時だけ自分の妻のフリをして欲しいという頼みをするハコボ。

マルタは特に嫌がる素振りも見せず、まるで仕事の一つのようにあっさり引き受けます。

次の日の朝、いつものようにハコボとマルタは工場の前に会いますが、ハコボはいつもと同じようにシャッターを開け、機械にスイッチを入れて、仕事を始めていきます。

ハコボの様子はいつもと変わらないのですが、その様子をただ黙って見ているマルタは、少し異なります。マルタは、仕事の合間に、『例の件』の打ち合わせが必要なのではないか?とハコボに話しかけますが、ハコボはまるで他人事のように、『それもそうだ。』という感じの受け答え。

このあたりから、男と女の感覚の違いが出てき始めるんです。

マルタは仕事が終わってから、ハコボの家を見に行きますが、これまたヒドイ。

いかにも男の一人暮らしって感じの部屋で、とてもじゃないですが、夫婦が生活をしている部屋ではない。

でもマルタは何も言わず、それを黙って見ています。

このあたりの演出も、どこか日本的というか、南米のイメージとは全く異なります。

そして、いよいよ弟のエルマンがやって来る日が訪れますが、マルタは当然のことながら化粧をしていて、いつもよりキレイに装っているのに、それに対して何も言わないハコボ。

どこかぎこちない感じで、ハコボ、エルマン、マルタという初老の男二人に女一人の物語がいよいよ始まっていきます。

この映画、なかなかの秀作です。

まず、南米というとどうしても陽気で賑やかな印象を持ちますが、この映画を観る限り、全く違う!

無駄なセリフが全くなく、カメラもあまり動かない、人物の表情を淡々と撮りながら表現していく様子は、まるで日本の小津監督や北野監督のようです。

この映画の演出の面白さは色々あるでしょうが、例えば、ハコボとエルマンが空港で出会うシーン。

二人はお互いに靴下を交換するのですが、兄のハコボは自分の工場の靴下の縫製は悪くて、空港で新しい靴下を買うのに対して、弟のエルマンが兄のハコボに渡した靴下はキレイでエルマンの工場の値札も付いている。

このシーンだけで、二人が互いに靴下工場を経営していて、弟の工場は経営がうまくいっているのに対して、兄の工場は厳しいのが分かります。

それ以外にも面白いのがハコボとマルタの関係。

この二人、夫婦のフリをするわけですけど、工場での二人の生活を見てるとまるで、長年連れ添った夫婦のようなんです。ほとんど会話が無い。

いくら工場で長く働いているマルタといっても、お互い独身の二人が、夫婦のフリをして一つの屋根の下に暮らすことになるにも関わらず、それでも家の会話が無い。

わずか数日の偽りの夫婦生活の中でも、マルタは女っぽくなっていくのに、ハコボは全く変わらない。

そんなハコボに愛想を尽かし始め、どちらかというと弟のエルマンに惹かれていくマルタ。

無口で不器用なハコボと、話好きで親しみやすいエルマン。

この映画を観てると、マルタの女心に気づかないハコボがまるで自分のように思えるのは僕だけ?(^_^;

この映画は、言ってみれば初老の男女の三角関係を描いているような面もあるんですが、それがいやらしくなくて、巧い。

芸術の秋に観るにはオススメの映画です。

ちなみに、映画のタイトルの『ウイスキー』は、日本で言えば、『チーズ』。

日本では写真を撮るときに、『ハイ、チーズ』と言って、みんな作り笑いを浮かべますけど、これがこの映画の中では『ウイスキー』と言って、三人の登場人物が写真撮影をするんです。

作り手の意図としては、そういう『作り笑い』の嘘を重ねていく中で、互いの絆を深めていく姿を描きたかったからのようです。

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2006年9月24日 (日)

クラッシュ~現代社会の苦悩と希望~

2週間ほど前の9月11日は、あの衝撃的な『9.11』から丸5年が経過した日でした。世界中に流れたあの衝撃的な映像は未だに本当の出来事とは思えません。

あれからイラクやアフガニスタンでの戦争が始まり、つい1ヶ月ほど前にもイギリスでテロ未遂の事件が発生。

一体、世の中はどこに向かっているんでしょう?

どうしてまた、こんなに紛争が世界中で起こるんでしょう?

現代は人類史上かつてないほど、物質的には豊かになり、世界中の人がこれほど身近にお互いを感じることが出来るようになったはずなのに…

助け合うことより、傷つけあうことのほうが多い毎日。

Photo_45 クラッシュ 2004年のアメリカ映画。

2005年のアカデミー賞では作品賞、脚本賞、編集賞を受賞しました。

監督・脚本は『ミリオンダラーベイビー』で脚本を務めたポール・ハギス。

出演はサンドラ・ブロック、マット・ディロン、ドン・チードル他。

舞台はロサンゼルス。

クリスマス前のある夜、ロサンゼルス警察の黒人刑事グラハムと恋人でもあり同じ刑事のリアは交通事故に巻き込まれます。

助手席に座ったグラハムは、独り言のようにリアに話しかけます。

グラハム『触れあいだよ。』

リア『何のこと?』

グラハム『街中を歩けば、よく人と体がぶつかったりするだろ?でも、ロスじゃあそれは皆無。人々は大抵車の中にいる。でも、触れあいたいのさ。ぶつかって何かを実感したいのさ。』

リアは、グラハムが事故のショックで何かおかしなことを言い出したと思い、車の外に出て様子を見に行くと、そこではアジア系の女性が事故の原因はリアにあると騒いでいます。スペイン系のリアとアジア系の女性の口論…

グラハムは車の外に出て、すぐそばの事件現場に向かっていくと、そこには事件に遭遇した黒人青年の遺体が横たわっています。

グラハム『…』

場面は変わって、ペルシャ人の雑貨経営者ファハドは、娘のドリと一緒に銃を買おうをしています。しかし、店の主人はファハドのことをイラク人だと思ったのか、なかなか銃を売ろうとせず口論になってしまいます。娘のドリが間に入り、なんとか拳銃と弾を手に入れるのですが、それは度々強盗に襲われる店を守るためのものでした。

場面変わって、夜のウエストウッドを若い黒人アンソニーとピーターが歩いていますが、そこはあまり黒人が歩かない所。アンソニーは、黒人は差別されるといってイラついているところに、たまたまそばを通りかかった白人カップルの女性の態度が気に障り、二人の車を強引に奪い去っていきます。二人が襲ったカップルとは、地方検事夫妻であったとは知らずに、現場から奪った車で逃げていくアンソニーとピーター。しかし、逃げていく途中で韓国人男性を車で轢いてしまいます。

白人警官のライアンは勤続17年のベテランですが、人種差別的なところがあります。ある夜のパトロール中にパーティー帰りのテレビディレクター夫妻が乗る車を特に理由もなく停車させ、職務質問を開始します。ライアンは夫のキャメロンを車から降ろし、職務質問を開始しますが、ライアンの態度に腹を立てた妻のクリスティンがライアンに食って掛かります。ライアンの態度があまりに、夫妻が黒人であるが故の尋問に思えたからです。キャメロンは必死でクリスティンをなだめますが、クリスティンもライアンに屈辱的な扱いを受けてしまいます。

この映画には、様々な人種や職業の人間が登場し、同時進行で複数の物語が進んでいきます。

共通しているのは、それぞれが常に何かとぶつかり、トラブルの中に巻き込まれていること。

黒人の刑事にスペイン系の女性刑事、アラブ系の雑貨店主、メキシコ系の男、白人の警官、アジア系の男…

なぜか、ぶつかりあってしまう。

お互いを傷つける気持ちなど無いにも関わらず、傷つけあい、苦しむ人々。

この映画のポスターになっているシーンは、マット・ディロン演じる白人警官ライアンが、事故に巻き込まれたクリスティンを助け出すものですが、レイプともいえる屈辱的なことをされたクリスティンが事故に遭遇し、そこに助けにきたのがライアンという運命の皮肉。

生死の境にいる状況にも関わらずライアンの助けを拒むクリスティン。最初は戸惑いを覚えたライアンも、警官としての使命感で彼女を必死に説得し、最後には助け出し、自然に二人はお互いの無事を喜び抱き合うシーンが、この映画の一番のメッセージかもしれません。

この映画は、後半に向けて、複数の物語や登場人物が一つにつながっていき、最初の事件現場のシーンに戻っていく構造になっていますので、そのあたりもじっくり観て下さい。

マーク・アイシャムの音楽も、スゴク印象的で映画を盛り立てていて、なかなか興味深い作品なので、まだ観ていない人は是非一度観て欲しい作品です。

かつてアメリカは人種のるつぼと言われ、様々な人種問題を抱え今に至っていますが、そのアメリカの苦しみと希望を感じさせてくれる作品。

ただこの映画の話は、アメリカの話というよりも、現代の世界が抱える共通の問題を語っているようにも思います。

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2006年9月17日 (日)

麦秋~人生の秋~

ここにきて、涼しい日が続き、秋が近づいてきたなあ~って感じですね。

まあ9月だから当然なのかもしれませんが、ここしばらく9月になっても残暑が厳しい印象があったので、なんかホッとします。

さて、そんな日本の秋といえば、食べ物や芸術、旅行、読書、ファッションと何かと楽しいことが多い季節ですけど、その一方で、ちょっと寂しさも感じるセンチメンタルな季節。

そんな秋の始まりの中で紹介する作品は、コレ。

Photo_44 麦秋

以前に『東京物語』を紹介しましたが、小津監督の名作の一つで1951年の作品。

脚本は小津 安二郎と野田 高悟。

出演は、原 節子、笠 智衆、淡島 千景、三宅 邦子他。

この映画は、ストーリーうんぬんよりも、一つ一つのシーンを楽しんでほしい作品なのですが、簡単にお伝えしておくと…

冒頭のシーンで、鎌倉の海岸を一匹の犬が走る姿が映り、そこから一転して間宮家の朝の食卓の風景が映ります。

このあたりは、『東京物語』とも似た風景ですが、28歳で未婚の紀子、長男の康一夫婦と息子の二人、そして康一と紀子の両親。

親子三代の朝食の風景が映る中で、随所にユーモアに溢れる演出がなされていて、この間宮家が幸せな一家なんだなあ~と思わせてくれます。

朝食の時に寝起きの子供が顔を洗ってなくて、それを原 節子扮する紀子に指摘されると、洗面所に戻ってタオルだけを濡らし顔を洗わずに戻って来て、子供ながらに紀子をごまかそうとするシーンや、『おじいちゃんのこと好きか?好きならお菓子をあげるぞ。』と言う祖父に『好き』を連発する孫、田舎から出てきた曾おじいさんの耳が遠いことを確かめるために、日向ぼっこをしている横で『ば~か』を連発する孫、おばあさんの肩たたきをしながら小遣いを稼ごうとする孫。

僕らが子供の頃では当たり前だった、孫と祖父、祖母との関係を随所に散りばめながら、話は進んでいきます。

主人公の紀子は28歳で、大会社の秘書をしていますが、一向に結婚をする気配がありません。そんな紀子と同じく未婚の友人アヤとつるんでは、結婚をしている友人を哀れんでみたり、ひやかしてみたり…

そんな他愛のない毎日を送っている紀子に、会社の専務が見合い話を持ってきます。相手は、専務の知り合いで、年齢は40歳ですが、なかなかの事業家で家柄もよさそう。

専務からの急な見合い話に最初は戸惑いながらも、一応話を受け入れる紀子。

すると紀子の見合い話を聞いた家族は大喜び。

間宮家の中では、ちょっと異質な存在だった紀子の見合い話で、全てがうまくいくように思われたのですが…

まずこの映画で感心したのは、戦後間もないこの時期に、『28才で未婚の女性』を映画の題材に選んでいるところ。

小津監督は、こういう題材の選び方や表現の仕方が、本当にモダンでしゃれてる。

それに『会話の間合い』。これが絶妙。

一つの音楽を聴いているかのように、テンポや歯切れが良くて、イイです。

音楽の入れ方もさりげないけど、しっかり効いてるし。

この作品は随所にユーモアが散りばめられていて、コメディーとして分類する人もいるようですが、でも単純なコメディーではないんです。

映画が始まったときは、幸せ一杯に見えた家族。

でも、その家族にも何気ないところで、それぞれがどこかで不安定な部分を抱えている。

独身を気取りながらも、結婚に揺れる紀子。

今の幸せに満足しながらも、戦争から未だ帰らない息子を待つ母と諦める父。

仕事一筋で、子育てに悩む長男の康一。

そんな家族が、それぞれの思いで、いずれはそれぞれの道へと旅立っていく。

人生には、出会いがあれば別れもある。

それは家族においても同じ。

映画の最後で、間宮家もそれぞれの道を歩み始めることになります。

映画の写真となっているのは、その時の記念撮影のものですが、別れはつらく寂しいものですが、同時に新しい旅立ちでもあり、次の人生の始まりでもあります。

そんな『何気ない日常生活の中にある人生の奥深さ』を感じる作品。

映画の最後のシーンで大和の田舎の麦畑で、たわわに実った麦が映し出されますが、そんな収穫の季節と、家族の姿をダブらせているのも、小津監督のこの映画の家族に対する愛情から出ているのかも?と思ってしまいます。

ちなみに、麦秋とは、季節で言うと5~6月の麦の刈り入れ時を指し、『秋』ではないそうです。へえ~

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2006年9月 9日 (土)

SAYURI~外国人の思う美しい国 日本~

自民党の総裁選挙も次第に熱気が高まってきてる感じですが、総裁候補が最有力とされている安倍さんが唱える『美しい国 日本』というのが、ちょっとした流行語になるかもしれませんね。

そんな『美しい国 日本』を映画化したような作品が、コレ。

Sayuri SAYURI 2005年のアメリカ映画

製作総指揮には、あのスティーブン・スピルバーグ。

監督は、シカゴのロブ・マーシャル

出演は、日本から渡部謙、桃井かおり、役所広司、工藤夕貴、海外からはあの、チャン・ツィイー、コン・リー、ミシェル・ヨーとアジアが誇る豪華キャスト。

この作品は、スピルバーグが1997年に出版されたアーサー・ゴールデン著の『Memories of a Geisha』(邦題;さゆり)の映画化権を買い取って製作されたようですが、スピルバーグは黒澤監督を崇拝している人だけに、『日本』を題材にした映画を撮りたい!って思われたのでしょうか?

とにかく、完全に日本が舞台になっているにも関わらず、それを外国人が小説化し、映画化したという少し不思議な作品。

さて、この映画は貧しい漁村のある一家のシーンから始まります。

得体の知れない一人の男が、父親と思われる人物と話をしています。

『生活が大変だろ?』と問われ、苦しげに答える父親。

『せめて娘だけでもなんとかしてやらないと』男のたたみかけるような口調に、うなずくしかない父親。

それを陰から見ている姉妹。

男は父親の了解を得ると、姉妹を早速連れ去っていきます。

(このあたりから、ジョン・ウイリアムズがいかにもジャポニズムって感じの音楽を挿入)

そして、二人姉妹の妹の千代は花街の置屋に売られ、姉は他の場所に連れていかれます。

千代が売られた置屋には、同じような境遇で働かされていた『おカボ』と呼ばれる女の子がいました。

おカボは自分の置かれた境遇を受け入れようとしていますが、千代は奴隷のように働かされる日々に耐えられず、行方の分からない姉を見つけて、なんとかここから逃げ出したいと思っています。

千代のいる置屋には、『初桃』と呼ばれる花街一番の芸者がいるのですが、初桃は千代を見たときから気に入らないようで、何かと嫌がらせをします。

そんなある日、初桃は『自分の言うことを聞けば、姉の居場所を教えてやる』とそそのかし、同じく花街の人気芸者『豆葉』の着物に落書きをさせるのですが、これが相手にばれてしまい、千代は女主人から厳しく折檻を受ける上に、着物代が借金として加えられます。

ますます絶望的な状況に置かれた千代は、とうとう初桃から姉の居場所を聞き出して、姉に密かに会いに行きます。

隣町の女郎部屋に売られていた姉と会った千代は、次の日に二人で逃げ出すことを約束すると、再び置屋に戻ってきますが、初桃と密かに呼び込んだ男との情事を見つけてしまいます。

千代に気づいた初桃。物音を聞きつけて、駆けつけてくる女主人。

初桃はとっさに、千代がお金を盗もうとしたと濡れ衣を着せてごまかそうとしますが、男を連れ込んでいたことを見抜かれ、怒った女主人は、男を連れ込めないように門に鍵をかけてしまいます。

それで困ってしまったのは千代。

姉との約束を果たすために、屋根をつたって逃げ出そうとするのですが、あえなく失敗。

姉との逃走に失敗した上に、治療費の借金が増え、挙句の果ては女主人から、両親が亡くなっていることを聞かされます。

絶望のどん底に落とされる千代。

悲しみに暮れる毎日を送る千代でしたが、ある日、橋のたもとで泣いていると、一人の紳士が優しく千代に声をかけてくれます。

今まで接したこともないような男の優しさに触れる千代。

男は、芸者を連れていて、彼女たちから『会長』と呼ばれていました。

その日以来、千代の人生に一つの目標が生まれます。

自分も芸者になって、あの方とまたお会いする…

それからの千代の人生は希望に溢れ、その日がやってくるのを待ち続け、わずかなお金の中からのお賽銭で神様にも祈り続けます。

そして、さゆりが15歳になったある日、あの豆葉が置屋に現れて、千代を預かって一流の芸者にしたいと女主人に申し出ます。

しかも、条件は『費用は豆葉が負担し、半年で芸者にしてみせる』というもの。

その日から、千代は豆葉によって芸者へと育てられ、『さゆり』という名前を与えられるのです…

とまあ、こんな感じで映画は進んでいきます。

しかし、僕としては、『う~ん?』って感じの作品かな。

良くも悪くも『外国人が見た日本の美』。

まず、映画を観始めてひっかかってしまうのが、『言葉』。

映画が始まった最初のシーンは『日本語』を使ってたかと思うと、置屋に話が移ってからは全て『英語』。しかもおかしいのが、置屋の女主人と女中頭が交わす会話が『日本語』になったかと思うと『英語』。

正直、?????????????って感じでした。

確かに、スタッフは全て外国人で、原作も外国人。キャストも主役はチャン・ツィイーで、他にもコン・リーやミシェル・ヨーがいることや興行のことを考えれば、『英語』にするのがいいんでしょうけど、やっぱり違和感があるんですよ。日本人の僕にとっては。

しかも芸者の世界ですしね。

だって、工藤夕貴が演じる『おカボ』を『パンプキン』って言ってるんだから、こうなってくるとコメディーのノリ。

言葉というのは、単に意味が分かれば良いということではなくて、その言葉を使うことで生まれるリズムや抑揚というのがあるから、その点でおかしくなると思うんですよ。

例えば、俳句。

あれは、日本語を理解しないと理解出来ない。あんなもの、英訳したらオカシイです。

映画の世界には吹き替えというものがあるから、それと同じということでしょうし、吹き替えでなくても、自国の言葉で外国の話を物語ること自体、映画の世界では別に珍しくないし、例えば、『アマデウス』。

舞台はウイーンを中心にしたヨーロッパなんだから、当然、英語はおかしいけど、僕らは逆にそれを普通に観てしまってる。

でも、今回のSAYURIであらためて、その国の言葉を使うことの重要性を感じました。

やっぱり日本語でないと伝わらない『空気』というのがあると思うんですよね。

あの黒澤監督が、スピルバーグに『外国を舞台にするなら、その国の言葉を使うようにしなさい』って言っておられたらしく、現に黒澤監督はご自身が監督をされた『デルスウザーラ』ではロシア語使っておられました。

それから、『音楽』。

なんかアジアが舞台だというと、やたらに『尺八』のような音を入れてみたり、日本風で作っているつもりの曲が、僕が聞くと『中国風』に聴こえたりして、なんか日本人の僕からすると『それ違うやろ?』って感じ。

ジョン・ウイリアムズ大先生に対して、申し訳ないですけど…

撮影の仕方も、やっぱり外国人風。まあ、これはこれでいいと思うんですけどね。

別に外国人から見た『日本の美』を描くのはイイと思うんですが、それだったら、もう少し違う演出の仕方があったような…

なんか、日本の美だとかなんとか言いながら、結局は、それで金儲けしたいだけにしか見えなかったなあ…残念。

ロブ・マーシャル監督の演出にケチをつけるのもおこがましいけど、さゆりの描き方もどこか違うような…というより、原作が外国の人ですからね。

芸者というのは、日本人が思う以上に、外国ではメジャーな言葉になっていると同時に、娼婦と同じように思われがちなため、それを打ち消そうとしている割には、『旦那』と『芸者』のあり方が、娼婦と同じような描き方になってる場面もあるし。

でも難しいもんですね。異国の文化を理解するのは。

僕らも同じような理解をしていることは多いんでしょうね?

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2006年9月 1日 (金)

キングの報酬~日本の次期首相は?~

今日から9月。今日は、朝から涼しくて、結構秋っぽかったですよね。

最近では、いつの間にかセミの声も聞こえなくなってますし…とは言っても、まだまだ暑さは続くようですが。

そして、自民党の総裁選挙も、本日安倍氏が正式に出馬表明を行ったことで、これからが大詰めと言いたいところですが、実際には選挙やる前から安倍氏に大勢は決まってるみたい…

正直、本屋でも安倍氏の本が所狭しと置かれていて、安倍氏の公約や政治家としての力量、考え方がどうのこうのというより、雰囲気で決まってしまってるみたいな感じ。安倍氏は例の拉致事件での姿勢で一気に株が上がった感じですけど、それ以外の面ではどうなんでしょ?

官房長官としての仕事ぶりを見ていても、今一つ、考えていることが見えないというか、ピンとこない感じです。なんか二代目のおぼっちゃまがキレイごとを並べてるだけというか…ああいうタイプの人は、今の時代にどうなんかなあ?イザといときに感情的に処理してしまいそうで不安やなあ…僕は。

それよりも、小泉首相のこの5年間の功罪というか、何につけ、全てイメージや雰囲気で決まっていて、ちゃんと中味を考えなくなってる僕ら…それがもっと恐いなあ>_<

谷垣氏や麻生氏は当て馬みたいで、出来レースの選挙のようになってるのに、自民党の党員のみなさんも、長いものには巻かれろ主義的な感じだし。

これでいいんかなあ?良くないわね。

Photo_43 キングの報酬という映画があります。

原題はPOWER

1986年のアメリカ映画です。

以前に『十二人の怒れる男』を紹介しましたが、監督はあのシドニー・ルメット。

出演はリチャード・ギア、ジーン・ハックマン、E・G・マーシャル、そして若き日のディンゼル・ワシントン他

この映画は、アメリカの選挙の裏側をサスペンス的な要素も取り入れて描いている作品です。

映画の冒頭で、主人公のピート・セイントジョンが専用ジェット機に乗り、ヘッドフォンをつけ、スティックでひたすらリズムを刻んでいるシーンが映ります。

このリズムが映画全体のリズムになっていると言ってもいいでしょうが、リズミカルでどこかあわただしい。そのリズムを刻むことに夢中になっている主人公の姿は、彼自身の生き様を表現しているかのようです。

そして、飛行機が着いた先は、南米のとある国。そこでの選挙キャンペーンに参加したピートですが、彼が支援する候補者が演説中に、爆破事件が発生。すると彼は、その様子を、テレビに中継させ、負傷した候補者を勇気づけながら、『これを最大限に選挙に生かす』ことをアドバイスし、『これで選挙に勝てる』と喜びます。

そうです。彼の仕事は、選挙活動のコンサルタント。しかも腕利きの仕掛け人。

実際、彼のアドバイスのおかげで劣勢だった選挙は、次第に優勢になっていきます。

そして再びアメリカに戻ってきたピートは、ニューメキシコ州の知事選挙に出馬したクライアントのウォーレスの元に駆けつけますが、ウォーレスはこれまた不器用で生真面目を絵に描いたような人。

選挙活動のための、スピーチの文面を真面目に読み上げる姿も、どこかぎこちない。そんなウォーレスにピートは『公約なんてどうでもいい。そんなものは後からつけろ。それより服装やしゃべり方!』とダメ出し。とにかく『イメージ』戦略を徹底するピート。

そんなピートも一目置く人物が、古くからのクライアントで友人であるオハイオ州選出の上院議員サム。でも、彼が突然、病気を理由に引退を表明します。

サムの政策を支持していたピートは彼を説得すべく、家を訪れますが、どこかおかしな様子。どうやら理由は他にあるようなのですが、それが分からない。

一方、サムの後釜で出馬を表明した政治家ケードには、アラブの石油王が背後で糸を引いているようですが、選挙活動のアドバイザーとして、ピートが雇われることになります。

友人の後釜を狙う政治家に雇われることに乗り気ではないものの、ビジネスとしてとらえ引き受けるピート。

しかし、実はピートも信用されておらず、自分の生活が盗聴されていることに気づきます。

どうして自分が盗聴されるのか?

どうしてサムは引退したのか?

このあたりから映画はサスペンスの要素が深まっていきます…

この映画の評判は、『ルメットの作品としては、面白くない』『駄作』というのもあるようなのですが、僕は『面白かった』ですよ。

決してダルいとも思わなかったし、むしろ、無駄なシーンもなく、さきほど述べたように、冒頭の主人公が刻んでいたリズムが映画全体を通じて流れているようで、最後まで面白く観させてもらいました。

この映画を観て思い出したのが、昔の映画でフランク・キャプラの『スミス都へ行く』。

この映画の主人公も、最初は政治の中味よりも、選挙をあくまでビジネス、あるいは一種のゲームとして捉えていたのが、次第に『何か大切なもの』に目覚めていく。

そんなところが、『スミス都へ行く』のコンセプトと似てるなあ…と思いました。

一方で、主人公の言動を見て思わされたのが、『政治におけるイメージ戦略』の恐ろしさ!

恐いなあ…実は、簡単に僕らって洗脳されてるんですよね。

アメリカの選挙は、大統領選挙を見ていても、ケネディの登場をきっかけにイメージの演出におそろしく力を入れますけど、実は、あのヒットラーもイメージ戦略の天才でしたもんね。

実際には宣伝を担当したゲッペルスの力ですが、今のコマーシャルの原型はナチスが生み出したといっても言いぐらい。

言いたいことを単純化して、何度も、繰り返す。(これって小泉首相も同じ手法)

ラジオや映画というメディアを最大限に使って、イメージを浸透させる。

(ちなみに、当時のドイツは、ヒトラーの演説を一人でも多くの人に聞かせたいばかりに、小型ラジオを開発したみたいです。)

映画を政治的に利用するのは、日本も含めて、他の国でも行ってたことですが、兵隊の行進の仕方や旗のデザインなど、『見え方』に異常に気を使ってるのがナチス。

そういや、ちょっと前に出版された本で『人は見た目が9割』というのもありましたよねえ。

まあ、確かにそうなんですが、それがこと政治となると、恐い話になります。

昨日のオリンピック候補地の決め方といい、最近の日本人はホンマに中味よりも、『見栄え』を重視してきてるようで、不安ですわ。

自民党総裁は安倍氏になるのは間違いないんでしょうけど、キレイごとばかりを言うんではなくて、国民に言いにくいこともキッチリ言う首相になって欲しいものです。

小泉劇場は、もう閉館してもらわんと、日本が壊れてしまう…

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