2006年11月 7日 (火)

キャラバン~人生の深みを感じさせる素朴で味わい深い映画~

Photo_49 キャラバン 

2000年のフランス、ネパール、スイス、イギリス合作映画

監督;エリック・ヴァリ

撮影;エリック・ギシャール、ジャン=ポール・ムリス

出演;ツェリン・ロンドゥップ、カルマ・ワンギャル、グルゴン・キャップ

ネパールの高原に拡がる麦畑。

その麦畑で一人の少年(パサン)と村の長老であるパサンの祖父(ティンレ)が会話を交わしています。

一面に拡がる麦畑に驚くパサンに対して、これだけでは村の人が生きるには不十分なのだと教えるティンレ。

そこにキャラバンと呼ばれる一行が村に帰ってきます。

キャラバンとは、村の人々が村で生産した塩をヤクに乗せて、麦と交換しに出かける一行のことを言うのですが、その旅は容易ではありません。

この日も帰ってきたキャラバンを出迎えた村の人々を悲しみが襲います。

キャラバンを率いる中心的人物で長老ティンレの息子が旅の途中の事故で亡くなってしまったのです。

悲しみに暮れる村の人々の中で、長老のティンレだけは、息子の死が息子の友人で、キャラバンのもう一人の中心人物カルマの仕業であると主張し始めます。

カルマは優秀なキャラバンのリーダーなのですが、なぜかティンレはカルマが長老の座を狙って息子を殺したと言い、次の長老の座は幼い孫のパサンに譲り、次のキャラバンもティンレが後見人としてパサンを連れて行くことを村の人に訴えます。

しかし、長老のティンレ自体も長くキャラバンから離れた生活を送っている上に、あまりにもパサンが幼いことに村の人々は困惑してしまいます。

そうしていくうちに次のキャラバンの日が近づいてくるのですが、キャラバン出発の日は古くから占いで決められていました。

カルマはそんな村の慣習やしきたりに抵抗を感じており、占いの日よりも早く出発することを主張し、村の若者たちはカルマと行動を共にしキャラバンに旅立っていきます。

村には長老のティンレをはじめ、年老いた者たちばかりが残されるのですが、ティンレは孫のパサンや年老いた古くからの友人を連れて、占いの日に旅立ちます。

ティンレの一行はカルマよりも4日ほど遅れた出発である上に、同行している者たちは年老いた者や幼い子供、そしてティンレ自体も年老いた体であるために、なかなか旅は思うように進みません。

すぐに疲れたとかお腹が減ったと言い出す者や、村に引き返すことを主張する者、ティンレ自身も身体が思うように動かない時もありますが、なんとかカルマの一行に追いつこうと旅を続けます。

又、ティンレよりも早く旅立ったカルマの一行も、村のしきたりを破って出発したこともあり、何か都合の悪いことが起こると、悪魔の仕業だと言い出すのですが、カルマはそんな迷信に囚われず旅を続けて行きます。

カルマとティンレ。

二人の新旧のリーダーに連れられた一行は、やがてヒマラヤの大自然の猛威にさらされていくことになるのです…

この映画は実際にヒマラヤ山脈で撮影を行ったようで、キャストも素人の方だと思うのですが、『本物の凄み』を感じさせてくれる映画というか、映像も美しいし、何よりも出演者の表情がイイなあ。

そしてこの映画は単に素朴さや美しさがイイという他に、ストーリーとしてもなかなか考えさせてくれるものがあったように思います。

まず、キャラバンという素材を使いながら、人生の歩み方を描いている点。

それと、カルマとティンレという二人のキャラクターを使って、その歩み方を象徴している点。

若く知的で現代的な考えをするカルマは、言ってみれば現代人の象徴。何事も科学的に考えようとして、古くからの言い伝えや教えよりも、自分自身を信じようとするタイプ。

それに対して、長老のティンレは、旧世代の象徴で、物分りが悪く、頑固で、神や自然に対して常に敬意を払っているような人物。

でも映画を観ていけば分かりますが、単にどちらが優れているとか劣っているということではなく、どちらも実は同じように重要なのだということを伝えようとしているようです。

映画が始まったときには、過去にとらわれ単に頑固で物分りの悪い老人に思えたティンレ。

それがキャラバンが進むに連れて、ティンレが単なる頑固者ではないことが分かり始めていくと同時に、カルマに何が不足しているのか?も伝わってきます。

そんなことが伝わる部分として、映画の最後でのカルマとティンレの会話を少し紹介しましょう。

(ティンレがついに長老の座をカルマに譲ることを伝え始めます。)

ティンレ;『お前に託す。忘れるな。長老は命令を下す。だが、それは神の命令だ。それを忘れるな。』

カルマ;『あんたが俺の実の父親だったら…』

ティンレ;『息子にしては、わしに似すぎとる。わしがいつも神託に従ったと思うか?反抗することから真の長老が生まれてくる。』

カルマ;『…』

秋の夜長に、ちょっとオススメの映画です。

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2006年10月29日 (日)

シービスケット~生きる勇気を与えてくれる映画~

いやあ~しばらくブログをご無沙汰してしまいました。前回の記事から4週間近くサボってしまい申し訳ないです。

実は先月から転職活動を行っていて、その追い込みもあったので記事を書くことが出来なかったのですが、なんとか次の仕事先を見つけることが出来ましたv^0^v

自分から望んだ転職であったとはいえ、希望の仕事を手に入れるのに約2年を要し、本当に長く厳しかったですが、一方で学ぶことの多い期間でもありました。

年齢としても決して若くないし、人生の折り返し地点での勝負だっただけに、リスクは大きいとは思ってましたけど、ここまで厳しいとは^_^;…っていうのが正直な感想です。

逆を言えば、それだけ以前の自分は未熟であったということでしょうし、それをここで学ぶことが出来、しかも自分が望む仕事をする機会を与えられたということは、非常に幸せなのだろうと思います。

そんな今の自分の気持ちと重なるとことが多く、人生において、なかなか突破口を見出せずにいる人に是非観て欲しい作品がコレ。

Photo_48 シービスケット 2003年のアメリカ映画

監督、脚本はゲイリー・ロス。

出演はトビー・マグワイア、ジェフ・ブリッジス、クリス・クーパー他。

この映画は実話を元にした作品で、原作はローラ・ヒレンブランドの『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説』。

この映画は原作のタイトルを見ても分かるように、実在したシービスケットという競走馬の話ではあるのですが、『人生において深い挫折を味わいながらも、その境遇から抜け出すことに挑んだ人間と馬の話』として見てもらったほうがイイと思います。

今からおよそ100年ほど前の1910年のアメリカ、時代は大きく変わり始めていました

『馬』の時代から『車』の時代へ、そしてT型フォードに代表される大量生産の時代へと急激に変わり始め、人々は新たな時代で成功を収めようと『西部』を目指していました。

自動車の機械工をしていたハワードもその一人で、西部で新しく車のディラーを始めたことがきっかけで事業に大成功しますが、一方でスミスのようなカウボーイは、そんな時代の流れに取り残されるように、馬と共に世捨て人のような生活を送っています。

そして1929年に、世界大恐慌が起こり、アメリカの全労働者の四分の一が仕事を失うのですが、裕福な家庭に育ったジョニーの一家も一夜にして財産を失ってしまい、ジョニーは大好きな家族とは別れて暮らすことになってしまいます。

また事業で成功を収めたハワードにも試練は訪れます。

ハワードが仕事で家を離れた日、最愛の息子が事故で命を失ってしまうのです。

時代の大きなうねりに巻き込まれるハワード、スミス、ジョニーの三人は、やがて運命の糸で結ばれていきます。

最愛の息子を失ったハワードは、その後に妻とも別れることになり、失意の日々を送っていましたが、そんなハワードを元気づけようと友人がメキシコとの国境の町に連れていきます。

時代は悪名高き禁酒法の時代でしたので、メキシコとの国境の町には酒やギャンブルを求める人が集まっていたのですが、ハワードはそこでマーセラという女性と運命的な出会いをして、やがて結婚することになります。

マーセラのおかげ次第に元気を取り戻したハワードは、乗馬が好きな彼女の影響を受けて競馬に興味を持ち始め、そしてスミスと運命的な出会いを果たします。

食べるために馬の調教師をしていたスミスは、いつも外で生活をして、馬を極度に大切にしていたために周りからは変わり者扱いをされていましたが、ハワードはそんなスミスに興味を持ち、スミスが暮らすテントを自ら訪れます。

軽い挨拶を交わした後、二人はこんな会話を交わします。

ハワード;(怪我をした馬をさして)具合は?

スミス;良くなった。

ハワード;レースは?

スミス;いや、それは無理だろう。

ハワード;じゃあ、なぜ治療を?

スミス;治せるから。どんな馬だって役に立つ。あいつも馬をひくとか、誘導馬とか、見るだけでもいい。ちょっと怪我をして、それで命あるものを殺すことは無い。

ハワード;(無言)

ハワードはスミスのそんな性格を信用し、3ヵ月後に調教師として雇うことにします。

スミスは、調教師になるにあたって、こんなことをハワードに言います。

スミス;馬はスピードじゃない。ハートだよ。競争を恐れない馬でなきゃ。大抵は見てくれだけの競走馬。勝負から逃げる馬はダメだ。

そんな馬を探すスミスの目の前にある日、一頭の馬が現れます。

小柄な体ではありましたが、気性が激しく、ちょっとやそっとでは人の手に負えない荒馬。産まれたときは性格の優しい馬だったのが、人間から手荒な扱いを受けてきたために、いつしか荒んだ心を持つようになった馬。

それがシービスケット。

スミスはシービスケットを一目見て、その資質に惚れ込み、ハワードに頼んで買うことにしますが、とは言ってもあまりに気性が激しいために、どんな騎手も相手にしてくれません。

荒れ狂うシービスケットの扱いに困っているスミス。

そんなスミスの目に、シービスケット同様に荒れ狂って回りの人間を手こずらせている一人の騎手の姿が映ります。

両親と別れてから、騎手として恵まれない生活を送り、今ではレッドと呼ばれているジョニーです。

レッドは、レースに出てもなかなか勝ちに恵まれず、生活のためにボクシングまでする日々を送り、文字通り身も心もズタズタの状態になっていましたが、そんなレッドをスミスはシービスケットの騎手として抜擢することに決めるのです。

そしてここから、長く厳しい時代を生き抜いてきたハワード、スミス、レッド(ジョニー)の三人とシービスケットの新たな戦いの日々が始まるのです…

こうやって僕のストーリー紹介を読んでると、長ったらしい話のように思うかもしれませんが、全体的にテンポよく作られてますし、特に映画の後半は実話とは思えないほどドラマチック。

以前に同時代の舞台設定の映画として『シンデレラマン』を紹介しましたが、この作品も本当に登場人物の姿に胸を打たれます。

僕自身も、この2年間の経験でつくづく思うのが、人生を生き抜くとはいうのは本当にタフなこと。

日本のような恵まれた国で生活をしていると、ついつい忘れてしまいがちですが、本当は一日一日を生きていくだけでも大変なことで、僕のようにそれをちょっと甘くみて、強がったことを試みると、それを痛感します。

でも、人生の不思議なところは、どれだけ厳しい状況に追い込まれても、自分の進む道を信じて毎日を送っていると、チャンスは訪れるということでしょうか?

だから諦めてしまってはいけないんだと思います。

みなさんも、もし今の自分の置かれている状況に希望が持てない時や何をやってもうまくいかなくて希望が持てないときなど、この映画を一度観られてはいかがでしょう?

何かを感じてもらえると思います。

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2006年10月 3日 (火)

刑事ジョン・ブック~美しいサスペンス映画~

本日の日経新聞の夕刊や読売新聞のネット記事によると、またもやショッキングな事件が起こりました。

日本でも十代の子供たちが巻き込まれる事件が後を絶ちませんが、アメリカではより深刻で、アメリカ北東部ペンシルバニア州ランカスター郡のキリスト教アーミッシュ系の学校を銃を持った男が襲撃し、4人が死亡、7人が負傷し、犯人は自殺したとのこと。

アメリカでは学校内での銃発砲事件が続発していて、先週もコロラド州で生徒を監禁し、一人を殺害した事件が起こったようですが、州警察によると、男は牛乳を運ぶ地元のトラック運転手だったようで、学校に侵入すると、教師や男子生徒を教室から追い出した後、女子生徒らを黒板の前に並べて銃撃するという残虐な事件だったようです。

この事件が起こったアーミッシュというのは、皆さんご存知でしょうか?

キリスト教徒の中でも、特に異質な人の集まりともいえますが、現在も電気や水道、ガスといったものを使用しない生活を守り通りしている人たちで、移動も車を使いません。

アメリカの中でも、かなり特異な存在で、こういった生活様式を見ていると、何か頑なな印象を受けますが、アーミッシュの人々は質素で、謙虚、従順といった生活を重んじているだけで、特に攻撃的な宗派でもなく、ごく質素な生活の中にこそ、キリストの教えがあると考えているようです。

そんなアーミッシュの人々の生活を取り上げたサスペンス映画が、これ。

Photo_47 刑事ジョン・ブック~目撃者~(原題;witness)

1985年のアメリカ映画。

監督は、『今を生きる』や『グリーンカード』のピーター・ウィアー。

出演は、ハリソン・フォード、ケリー・マクギリス、ルーカス・ハース他。

原題がwitnessとあるように、ある子供が殺人事件を目撃することから映画が始まりますが、とにかく、この映画は『美しい』。

ジョン・シールが撮影した映像やモーリス・ジャールの音楽が見事!

映画は冒頭に素朴なアーミッシュの人たちの生活風景を美しく描き出します。このあたりが、単なるサスペンス映画と異なります。

少年サミュエルはアーミッシュの街で育ち、母親のレイチェルと一緒に叔母の家を訪ねていこうと駅にいますが、好奇心旺盛のサミュエルは母親がちょっと目を話したすきに、その場を離れ、駅のトイレの中に入り込んでしまいます。

すると、そこに二人の男が入ってきたので、慌てて物陰に隠れるサミュエル。

どこか様子がおかしい男たち。と、突然、一人の男がもう一人の男を銃で殺してしまいます。

その様子を物陰から目撃してしまったサミュエル。

危うく犯人に見つかりそうになるところで難を逃れるサミュエルですが、事件の目撃者として警察に保護されることになります。

そこに現れたのが、刑事ジョン。

ジョンはレイチェルとサミュエルを保護しようとするのですが、犯人と思われる者から執拗な攻撃を受ける三人。

しかも、ジョンの上司しか知らないはずの事情が犯人に流れているようなのです。

ジョンは身の危険を感じ、レイチェルとサミュエルを連れて、アーミッシュの村に逃げ込むのですが、アーミッシュの人からもジョンは歓迎されません。

彼はアーミッシュとは別の世界に住む人なのですから…

この映画は、基本はサスペンス映画です。

でも、最初にお話したように、とにかく『美しい』というか、アーミッシュの人々の生活とジョンとの関わりをじっくり描いているところが好感を持てます。

ジョンは言ってみれば、僕達と同じ存在。

最初は奇異に見える彼らの生活も、実際に彼らと一緒に生活してみれば、彼らの生活や人間の素晴らしさが見えてきて、実は文明社会に住む自分たちのほうが、了見の狭い世界に生きていることに気づかされます。

今回の殺人事件の動機はまだ定かではないようですが、今回の事件は何事においても表面的なところで物事を判断しがちな現代社会の悲劇と言えるかもしれません。

先日、紹介した映画『クラッシュ』でもそうですが、急激に多様化する社会に対して、アメリカに代表される現代社会は極度な拒否反応を示しているんでしょうか?

この悲劇の向こうに何があるんでしょ?

異質なものに対して攻撃するのではなく、受け入れる寛容な姿勢。

なかなか難しいことですけど、これなくして、僕らに未来はないのかもしれません。

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2006年9月30日 (土)

ウィスキー~ちょっと小粋なウルグアイ映画~

昔、黒澤明監督が『映画は世界の広場』と言っておられたようですが、確かに映画を通じて、その国の人の感性に触れることで意外な発見があったりするものです。

以前にブラジル映画の『セントラルステーション』をご紹介しましたが、今回の作品も南米ウルグアイの映画。

ウルグアイなんて、サッカー以外に僕は知らず、映画なんて全然観たことがなかったのですが、それもそのはず、ウルグアイではこれまでに60本の作品しか作られておらず、2002年までは実質映画産業は存在しなかったとか…

Photo_46 ウイスキー

2004年のウルグアイ映画。

監督・脚本は若干30歳のファン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールの二人。

出演は、アンドレス・パソス、ミレージャ・バスクアル、ホルヘ・バローニ。

2004年の東京国際映画祭やカンヌ映画祭での話題作品。

舞台はウルグアイの小さな靴下工場。

小さな靴下工場を父親から譲りうけた初老の男ハコボは、結婚もしておらず、子供もいません。毎朝、工場の近くの薄暗い店で朝食を食べると、そのまま工場に行き、工場のシャッターを開け、機械のスイッチを入れるといったことを毎日繰り返す日々を送っています。

そのハコボを毎朝工場の前で待っているのが、工場で長く働く中年女性のマルタ。

ハコボがやって来てシャッターが開くと、工場に入っていき、お茶を入れたり、ハコボの手伝いを淡々と済ませていくマルタ。でも、そんなマルタとハコボには、ほとんど会話といったものも無く、ただ毎日を機械的に送るような日々。

そんなある日、ハコボが珍しくマルタに声をかけてきます。

1年前に亡くなった母親の墓石の建立式に弟エルマンを呼ぶことになったが、その時だけ自分の妻のフリをして欲しいという頼みをするハコボ。

マルタは特に嫌がる素振りも見せず、まるで仕事の一つのようにあっさり引き受けます。

次の日の朝、いつものようにハコボとマルタは工場の前に会いますが、ハコボはいつもと同じようにシャッターを開け、機械にスイッチを入れて、仕事を始めていきます。

ハコボの様子はいつもと変わらないのですが、その様子をただ黙って見ているマルタは、少し異なります。マルタは、仕事の合間に、『例の件』の打ち合わせが必要なのではないか?とハコボに話しかけますが、ハコボはまるで他人事のように、『それもそうだ。』という感じの受け答え。

このあたりから、男と女の感覚の違いが出てき始めるんです。

マルタは仕事が終わってから、ハコボの家を見に行きますが、これまたヒドイ。

いかにも男の一人暮らしって感じの部屋で、とてもじゃないですが、夫婦が生活をしている部屋ではない。

でもマルタは何も言わず、それを黙って見ています。

このあたりの演出も、どこか日本的というか、南米のイメージとは全く異なります。

そして、いよいよ弟のエルマンがやって来る日が訪れますが、マルタは当然のことながら化粧をしていて、いつもよりキレイに装っているのに、それに対して何も言わないハコボ。

どこかぎこちない感じで、ハコボ、エルマン、マルタという初老の男二人に女一人の物語がいよいよ始まっていきます。

この映画、なかなかの秀作です。

まず、南米というとどうしても陽気で賑やかな印象を持ちますが、この映画を観る限り、全く違う!

無駄なセリフが全くなく、カメラもあまり動かない、人物の表情を淡々と撮りながら表現していく様子は、まるで日本の小津監督や北野監督のようです。

この映画の演出の面白さは色々あるでしょうが、例えば、ハコボとエルマンが空港で出会うシーン。

二人はお互いに靴下を交換するのですが、兄のハコボは自分の工場の靴下の縫製は悪くて、空港で新しい靴下を買うのに対して、弟のエルマンが兄のハコボに渡した靴下はキレイでエルマンの工場の値札も付いている。

このシーンだけで、二人が互いに靴下工場を経営していて、弟の工場は経営がうまくいっているのに対して、兄の工場は厳しいのが分かります。

それ以外にも面白いのがハコボとマルタの関係。

この二人、夫婦のフリをするわけですけど、工場での二人の生活を見てるとまるで、長年連れ添った夫婦のようなんです。ほとんど会話が無い。

いくら工場で長く働いているマルタといっても、お互い独身の二人が、夫婦のフリをして一つの屋根の下に暮らすことになるにも関わらず、それでも家の会話が無い。

わずか数日の偽りの夫婦生活の中でも、マルタは女っぽくなっていくのに、ハコボは全く変わらない。

そんなハコボに愛想を尽かし始め、どちらかというと弟のエルマンに惹かれていくマルタ。

無口で不器用なハコボと、話好きで親しみやすいエルマン。

この映画を観てると、マルタの女心に気づかないハコボがまるで自分のように思えるのは僕だけ?(^_^;

この映画は、言ってみれば初老の男女の三角関係を描いているような面もあるんですが、それがいやらしくなくて、巧い。

芸術の秋に観るにはオススメの映画です。

ちなみに、映画のタイトルの『ウイスキー』は、日本で言えば、『チーズ』。

日本では写真を撮るときに、『ハイ、チーズ』と言って、みんな作り笑いを浮かべますけど、これがこの映画の中では『ウイスキー』と言って、三人の登場人物が写真撮影をするんです。

作り手の意図としては、そういう『作り笑い』の嘘を重ねていく中で、互いの絆を深めていく姿を描きたかったからのようです。

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2006年9月24日 (日)

クラッシュ~現代社会の苦悩と希望~

2週間ほど前の9月11日は、あの衝撃的な『9.11』から丸5年が経過した日でした。世界中に流れたあの衝撃的な映像は未だに本当の出来事とは思えません。

あれからイラクやアフガニスタンでの戦争が始まり、つい1ヶ月ほど前にもイギリスでテロ未遂の事件が発生。

一体、世の中はどこに向かっているんでしょう?

どうしてまた、こんなに紛争が世界中で起こるんでしょう?

現代は人類史上かつてないほど、物質的には豊かになり、世界中の人がこれほど身近にお互いを感じることが出来るようになったはずなのに…

助け合うことより、傷つけあうことのほうが多い毎日。

Photo_45 クラッシュ 2004年のアメリカ映画。

2005年のアカデミー賞では作品賞、脚本賞、編集賞を受賞しました。

監督・脚本は『ミリオンダラーベイビー』で脚本を務めたポール・ハギス。

出演はサンドラ・ブロック、マット・ディロン、ドン・チードル他。

舞台はロサンゼルス。

クリスマス前のある夜、ロサンゼルス警察の黒人刑事グラハムと恋人でもあり同じ刑事のリアは交通事故に巻き込まれます。

助手席に座ったグラハムは、独り言のようにリアに話しかけます。

グラハム『触れあいだよ。』

リア『何のこと?』

グラハム『街中を歩けば、よく人と体がぶつかったりするだろ?でも、ロスじゃあそれは皆無。人々は大抵車の中にいる。でも、触れあいたいのさ。ぶつかって何かを実感したいのさ。』

リアは、グラハムが事故のショックで何かおかしなことを言い出したと思い、車の外に出て様子を見に行くと、そこではアジア系の女性が事故の原因はリアにあると騒いでいます。スペイン系のリアとアジア系の女性の口論…

グラハムは車の外に出て、すぐそばの事件現場に向かっていくと、そこには事件に遭遇した黒人青年の遺体が横たわっています。

グラハム『…』

場面は変わって、ペルシャ人の雑貨経営者ファハドは、娘のドリと一緒に銃を買おうをしています。しかし、店の主人はファハドのことをイラク人だと思ったのか、なかなか銃を売ろうとせず口論になってしまいます。娘のドリが間に入り、なんとか拳銃と弾を手に入れるのですが、それは度々強盗に襲われる店を守るためのものでした。

場面変わって、夜のウエストウッドを若い黒人アンソニーとピーターが歩いていますが、そこはあまり黒人が歩かない所。アンソニーは、黒人は差別されるといってイラついているところに、たまたまそばを通りかかった白人カップルの女性の態度が気に障り、二人の車を強引に奪い去っていきます。二人が襲ったカップルとは、地方検事夫妻であったとは知らずに、現場から奪った車で逃げていくアンソニーとピーター。しかし、逃げていく途中で韓国人男性を車で轢いてしまいます。

白人警官のライアンは勤続17年のベテランですが、人種差別的なところがあります。ある夜のパトロール中にパーティー帰りのテレビディレクター夫妻が乗る車を特に理由もなく停車させ、職務質問を開始します。ライアンは夫のキャメロンを車から降ろし、職務質問を開始しますが、ライアンの態度に腹を立てた妻のクリスティンがライアンに食って掛かります。ライアンの態度があまりに、夫妻が黒人であるが故の尋問に思えたからです。キャメロンは必死でクリスティンをなだめますが、クリスティンもライアンに屈辱的な扱いを受けてしまいます。

この映画には、様々な人種や職業の人間が登場し、同時進行で複数の物語が進んでいきます。

共通しているのは、それぞれが常に何かとぶつかり、トラブルの中に巻き込まれていること。

黒人の刑事にスペイン系の女性刑事、アラブ系の雑貨店主、メキシコ系の男、白人の警官、アジア系の男…

なぜか、ぶつかりあってしまう。

お互いを傷つける気持ちなど無いにも関わらず、傷つけあい、苦しむ人々。

この映画のポスターになっているシーンは、マット・ディロン演じる白人警官ライアンが、事故に巻き込まれたクリスティンを助け出すものですが、レイプともいえる屈辱的なことをされたクリスティンが事故に遭遇し、そこに助けにきたのがライアンという運命の皮肉。

生死の境にいる状況にも関わらずライアンの助けを拒むクリスティン。最初は戸惑いを覚えたライアンも、警官としての使命感で彼女を必死に説得し、最後には助け出し、自然に二人はお互いの無事を喜び抱き合うシーンが、この映画の一番のメッセージかもしれません。

この映画は、後半に向けて、複数の物語や登場人物が一つにつながっていき、最初の事件現場のシーンに戻っていく構造になっていますので、そのあたりもじっくり観て下さい。

マーク・アイシャムの音楽も、スゴク印象的で映画を盛り立てていて、なかなか興味深い作品なので、まだ観ていない人は是非一度観て欲しい作品です。

かつてアメリカは人種のるつぼと言われ、様々な人種問題を抱え今に至っていますが、そのアメリカの苦しみと希望を感じさせてくれる作品。

ただこの映画の話は、アメリカの話というよりも、現代の世界が抱える共通の問題を語っているようにも思います。

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2006年9月17日 (日)

麦秋~人生の秋~

ここにきて、涼しい日が続き、秋が近づいてきたなあ~って感じですね。

まあ9月だから当然なのかもしれませんが、ここしばらく9月になっても残暑が厳しい印象があったので、なんかホッとします。

さて、そんな日本の秋といえば、食べ物や芸術、旅行、読書、ファッションと何かと楽しいことが多い季節ですけど、その一方で、ちょっと寂しさも感じるセンチメンタルな季節。

そんな秋の始まりの中で紹介する作品は、コレ。

Photo_44 麦秋

以前に『東京物語』を紹介しましたが、小津監督の名作の一つで1951年の作品。

脚本は小津 安二郎と野田 高悟。

出演は、原 節子、笠 智衆、淡島 千景、三宅 邦子他。

この映画は、ストーリーうんぬんよりも、一つ一つのシーンを楽しんでほしい作品なのですが、簡単にお伝えしておくと…

冒頭のシーンで、鎌倉の海岸を一匹の犬が走る姿が映り、そこから一転して間宮家の朝の食卓の風景が映ります。

このあたりは、『東京物語』とも似た風景ですが、28歳で未婚の紀子、長男の康一夫婦と息子の二人、そして康一と紀子の両親。

親子三代の朝食の風景が映る中で、随所にユーモアに溢れる演出がなされていて、この間宮家が幸せな一家なんだなあ~と思わせてくれます。

朝食の時に寝起きの子供が顔を洗ってなくて、それを原 節子扮する紀子に指摘されると、洗面所に戻ってタオルだけを濡らし顔を洗わずに戻って来て、子供ながらに紀子をごまかそうとするシーンや、『おじいちゃんのこと好きか?好きならお菓子をあげるぞ。』と言う祖父に『好き』を連発する孫、田舎から出てきた曾おじいさんの耳が遠いことを確かめるために、日向ぼっこをしている横で『ば~か』を連発する孫、おばあさんの肩たたきをしながら小遣いを稼ごうとする孫。

僕らが子供の頃では当たり前だった、孫と祖父、祖母との関係を随所に散りばめながら、話は進んでいきます。

主人公の紀子は28歳で、大会社の秘書をしていますが、一向に結婚をする気配がありません。そんな紀子と同じく未婚の友人アヤとつるんでは、結婚をしている友人を哀れんでみたり、ひやかしてみたり…

そんな他愛のない毎日を送っている紀子に、会社の専務が見合い話を持ってきます。相手は、専務の知り合いで、年齢は40歳ですが、なかなかの事業家で家柄もよさそう。

専務からの急な見合い話に最初は戸惑いながらも、一応話を受け入れる紀子。

すると紀子の見合い話を聞いた家族は大喜び。

間宮家の中では、ちょっと異質な存在だった紀子の見合い話で、全てがうまくいくように思われたのですが…

まずこの映画で感心したのは、戦後間もないこの時期に、『28才で未婚の女性』を映画の題材に選んでいるところ。

小津監督は、こういう題材の選び方や表現の仕方が、本当にモダンでしゃれてる。

それに『会話の間合い』。これが絶妙。

一つの音楽を聴いているかのように、テンポや歯切れが良くて、イイです。

音楽の入れ方もさりげないけど、しっかり効いてるし。

この作品は随所にユーモアが散りばめられていて、コメディーとして分類する人もいるようですが、でも単純なコメディーではないんです。

映画が始まったときは、幸せ一杯に見えた家族。

でも、その家族にも何気ないところで、それぞれがどこかで不安定な部分を抱えている。

独身を気取りながらも、結婚に揺れる紀子。

今の幸せに満足しながらも、戦争から未だ帰らない息子を待つ母と諦める父。

仕事一筋で、子育てに悩む長男の康一。

そんな家族が、それぞれの思いで、いずれはそれぞれの道へと旅立っていく。

人生には、出会いがあれば別れもある。

それは家族においても同じ。

映画の最後で、間宮家もそれぞれの道を歩み始めることになります。

映画の写真となっているのは、その時の記念撮影のものですが、別れはつらく寂しいものですが、同時に新しい旅立ちでもあり、次の人生の始まりでもあります。

そんな『何気ない日常生活の中にある人生の奥深さ』を感じる作品。

映画の最後のシーンで大和の田舎の麦畑で、たわわに実った麦が映し出されますが、そんな収穫の季節と、家族の姿をダブらせているのも、小津監督のこの映画の家族に対する愛情から出ているのかも?と思ってしまいます。

ちなみに、麦秋とは、季節で言うと5~6月の麦の刈り入れ時を指し、『秋』ではないそうです。へえ~

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2006年9月 9日 (土)

SAYURI~外国人の思う美しい国 日本~

自民党の総裁選挙も次第に熱気が高まってきてる感じですが、総裁候補が最有力とされている安倍さんが唱える『美しい国 日本』というのが、ちょっとした流行語になるかもしれませんね。

そんな『美しい国 日本』を映画化したような作品が、コレ。

Sayuri SAYURI 2005年のアメリカ映画

製作総指揮には、あのスティーブン・スピルバーグ。

監督は、シカゴのロブ・マーシャル

出演は、日本から渡部謙、桃井かおり、役所広司、工藤夕貴、海外からはあの、チャン・ツィイー、コン・リー、ミシェル・ヨーとアジアが誇る豪華キャスト。

この作品は、スピルバーグが1997年に出版されたアーサー・ゴールデン著の『Memories of a Geisha』(邦題;さゆり)の映画化権を買い取って製作されたようですが、スピルバーグは黒澤監督を崇拝している人だけに、『日本』を題材にした映画を撮りたい!って思われたのでしょうか?

とにかく、完全に日本が舞台になっているにも関わらず、それを外国人が小説化し、映画化したという少し不思議な作品。

さて、この映画は貧しい漁村のある一家のシーンから始まります。

得体の知れない一人の男が、父親と思われる人物と話をしています。

『生活が大変だろ?』と問われ、苦しげに答える父親。

『せめて娘だけでもなんとかしてやらないと』男のたたみかけるような口調に、うなずくしかない父親。

それを陰から見ている姉妹。

男は父親の了解を得ると、姉妹を早速連れ去っていきます。

(このあたりから、ジョン・ウイリアムズがいかにもジャポニズムって感じの音楽を挿入)

そして、二人姉妹の妹の千代は花街の置屋に売られ、姉は他の場所に連れていかれます。

千代が売られた置屋には、同じような境遇で働かされていた『おカボ』と呼ばれる女の子がいました。

おカボは自分の置かれた境遇を受け入れようとしていますが、千代は奴隷のように働かされる日々に耐えられず、行方の分からない姉を見つけて、なんとかここから逃げ出したいと思っています。

千代のいる置屋には、『初桃』と呼ばれる花街一番の芸者がいるのですが、初桃は千代を見たときから気に入らないようで、何かと嫌がらせをします。

そんなある日、初桃は『自分の言うことを聞けば、姉の居場所を教えてやる』とそそのかし、同じく花街の人気芸者『豆葉』の着物に落書きをさせるのですが、これが相手にばれてしまい、千代は女主人から厳しく折檻を受ける上に、着物代が借金として加えられます。

ますます絶望的な状況に置かれた千代は、とうとう初桃から姉の居場所を聞き出して、姉に密かに会いに行きます。

隣町の女郎部屋に売られていた姉と会った千代は、次の日に二人で逃げ出すことを約束すると、再び置屋に戻ってきますが、初桃と密かに呼び込んだ男との情事を見つけてしまいます。

千代に気づいた初桃。物音を聞きつけて、駆けつけてくる女主人。

初桃はとっさに、千代がお金を盗もうとしたと濡れ衣を着せてごまかそうとしますが、男を連れ込んでいたことを見抜かれ、怒った女主人は、男を連れ込めないように門に鍵をかけてしまいます。

それで困ってしまったのは千代。

姉との約束を果たすために、屋根をつたって逃げ出そうとするのですが、あえなく失敗。

姉との逃走に失敗した上に、治療費の借金が増え、挙句の果ては女主人から、両親が亡くなっていることを聞かされます。

絶望のどん底に落とされる千代。

悲しみに暮れる毎日を送る千代でしたが、ある日、橋のたもとで泣いていると、一人の紳士が優しく千代に声をかけてくれます。

今まで接したこともないような男の優しさに触れる千代。

男は、芸者を連れていて、彼女たちから『会長』と呼ばれていました。

その日以来、千代の人生に一つの目標が生まれます。

自分も芸者になって、あの方とまたお会いする…

それからの千代の人生は希望に溢れ、その日がやってくるのを待ち続け、わずかなお金の中からのお賽銭で神様にも祈り続けます。

そして、さゆりが15歳になったある日、あの豆葉が置屋に現れて、千代を預かって一流の芸者にしたいと女主人に申し出ます。

しかも、条件は『費用は豆葉が負担し、半年で芸者にしてみせる』というもの。

その日から、千代は豆葉によって芸者へと育てられ、『さゆり』という名前を与えられるのです…

とまあ、こんな感じで映画は進んでいきます。

しかし、僕としては、『う~ん?』って感じの作品かな。

良くも悪くも『外国人が見た日本の美』。

まず、映画を観始めてひっかかってしまうのが、『言葉』。

映画が始まった最初のシーンは『日本語』を使ってたかと思うと、置屋に話が移ってからは全て『英語』。しかもおかしいのが、置屋の女主人と女中頭が交わす会話が『日本語』になったかと思うと『英語』。

正直、?????????????って感じでした。

確かに、スタッフは全て外国人で、原作も外国人。キャストも主役はチャン・ツィイーで、他にもコン・リーやミシェル・ヨーがいることや興行のことを考えれば、『英語』にするのがいいんでしょうけど、やっぱり違和感があるんですよ。日本人の僕にとっては。

しかも芸者の世界ですしね。

だって、工藤夕貴が演じる『おカボ』を『パンプキン』って言ってるんだから、こうなってくるとコメディーのノリ。

言葉というのは、単に意味が分かれば良いということではなくて、その言葉を使うことで生まれるリズムや抑揚というのがあるから、その点でおかしくなると思うんですよ。

例えば、俳句。

あれは、日本語を理解しないと理解出来ない。あんなもの、英訳したらオカシイです。

映画の世界には吹き替えというものがあるから、それと同じということでしょうし、吹き替えでなくても、自国の言葉で外国の話を物語ること自体、映画の世界では別に珍しくないし、例えば、『アマデウス』。

舞台はウイーンを中心にしたヨーロッパなんだから、当然、英語はおかしいけど、僕らは逆にそれを普通に観てしまってる。

でも、今回のSAYURIであらためて、その国の言葉を使うことの重要性を感じました。

やっぱり日本語でないと伝わらない『空気』というのがあると思うんですよね。

あの黒澤監督が、スピルバーグに『外国を舞台にするなら、その国の言葉を使うようにしなさい』って言っておられたらしく、現に黒澤監督はご自身が監督をされた『デルスウザーラ』ではロシア語使っておられました。

それから、『音楽』。

なんかアジアが舞台だというと、やたらに『尺八』のような音を入れてみたり、日本風で作っているつもりの曲が、僕が聞くと『中国風』に聴こえたりして、なんか日本人の僕からすると『それ違うやろ?』って感じ。

ジョン・ウイリアムズ大先生に対して、申し訳ないですけど…

撮影の仕方も、やっぱり外国人風。まあ、これはこれでいいと思うんですけどね。

別に外国人から見た『日本の美』を描くのはイイと思うんですが、それだったら、もう少し違う演出の仕方があったような…

なんか、日本の美だとかなんとか言いながら、結局は、それで金儲けしたいだけにしか見えなかったなあ…残念。

ロブ・マーシャル監督の演出にケチをつけるのもおこがましいけど、さゆりの描き方もどこか違うような…というより、原作が外国の人ですからね。

芸者というのは、日本人が思う以上に、外国ではメジャーな言葉になっていると同時に、娼婦と同じように思われがちなため、それを打ち消そうとしている割には、『旦那』と『芸者』のあり方が、娼婦と同じような描き方になってる場面もあるし。

でも難しいもんですね。異国の文化を理解するのは。

僕らも同じような理解をしていることは多いんでしょうね?

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2006年9月 1日 (金)

キングの報酬~日本の次期首相は?~

今日から9月。今日は、朝から涼しくて、結構秋っぽかったですよね。

最近では、いつの間にかセミの声も聞こえなくなってますし…とは言っても、まだまだ暑さは続くようですが。

そして、自民党の総裁選挙も、本日安倍氏が正式に出馬表明を行ったことで、これからが大詰めと言いたいところですが、実際には選挙やる前から安倍氏に大勢は決まってるみたい…

正直、本屋でも安倍氏の本が所狭しと置かれていて、安倍氏の公約や政治家としての力量、考え方がどうのこうのというより、雰囲気で決まってしまってるみたいな感じ。安倍氏は例の拉致事件での姿勢で一気に株が上がった感じですけど、それ以外の面ではどうなんでしょ?

官房長官としての仕事ぶりを見ていても、今一つ、考えていることが見えないというか、ピンとこない感じです。なんか二代目のおぼっちゃまがキレイごとを並べてるだけというか…ああいうタイプの人は、今の時代にどうなんかなあ?イザといときに感情的に処理してしまいそうで不安やなあ…僕は。

それよりも、小泉首相のこの5年間の功罪というか、何につけ、全てイメージや雰囲気で決まっていて、ちゃんと中味を考えなくなってる僕ら…それがもっと恐いなあ>_<

谷垣氏や麻生氏は当て馬みたいで、出来レースの選挙のようになってるのに、自民党の党員のみなさんも、長いものには巻かれろ主義的な感じだし。

これでいいんかなあ?良くないわね。

Photo_43 キングの報酬という映画があります。

原題はPOWER

1986年のアメリカ映画です。

以前に『十二人の怒れる男』を紹介しましたが、監督はあのシドニー・ルメット。

出演はリチャード・ギア、ジーン・ハックマン、E・G・マーシャル、そして若き日のディンゼル・ワシントン他

この映画は、アメリカの選挙の裏側をサスペンス的な要素も取り入れて描いている作品です。

映画の冒頭で、主人公のピート・セイントジョンが専用ジェット機に乗り、ヘッドフォンをつけ、スティックでひたすらリズムを刻んでいるシーンが映ります。

このリズムが映画全体のリズムになっていると言ってもいいでしょうが、リズミカルでどこかあわただしい。そのリズムを刻むことに夢中になっている主人公の姿は、彼自身の生き様を表現しているかのようです。

そして、飛行機が着いた先は、南米のとある国。そこでの選挙キャンペーンに参加したピートですが、彼が支援する候補者が演説中に、爆破事件が発生。すると彼は、その様子を、テレビに中継させ、負傷した候補者を勇気づけながら、『これを最大限に選挙に生かす』ことをアドバイスし、『これで選挙に勝てる』と喜びます。

そうです。彼の仕事は、選挙活動のコンサルタント。しかも腕利きの仕掛け人。

実際、彼のアドバイスのおかげで劣勢だった選挙は、次第に優勢になっていきます。

そして再びアメリカに戻ってきたピートは、ニューメキシコ州の知事選挙に出馬したクライアントのウォーレスの元に駆けつけますが、ウォーレスはこれまた不器用で生真面目を絵に描いたような人。

選挙活動のための、スピーチの文面を真面目に読み上げる姿も、どこかぎこちない。そんなウォーレスにピートは『公約なんてどうでもいい。そんなものは後からつけろ。それより服装やしゃべり方!』とダメ出し。とにかく『イメージ』戦略を徹底するピート。

そんなピートも一目置く人物が、古くからのクライアントで友人であるオハイオ州選出の上院議員サム。でも、彼が突然、病気を理由に引退を表明します。

サムの政策を支持していたピートは彼を説得すべく、家を訪れますが、どこかおかしな様子。どうやら理由は他にあるようなのですが、それが分からない。

一方、サムの後釜で出馬を表明した政治家ケードには、アラブの石油王が背後で糸を引いているようですが、選挙活動のアドバイザーとして、ピートが雇われることになります。

友人の後釜を狙う政治家に雇われることに乗り気ではないものの、ビジネスとしてとらえ引き受けるピート。

しかし、実はピートも信用されておらず、自分の生活が盗聴されていることに気づきます。

どうして自分が盗聴されるのか?

どうしてサムは引退したのか?

このあたりから映画はサスペンスの要素が深まっていきます…

この映画の評判は、『ルメットの作品としては、面白くない』『駄作』というのもあるようなのですが、僕は『面白かった』ですよ。

決してダルいとも思わなかったし、むしろ、無駄なシーンもなく、さきほど述べたように、冒頭の主人公が刻んでいたリズムが映画全体を通じて流れているようで、最後まで面白く観させてもらいました。

この映画を観て思い出したのが、昔の映画でフランク・キャプラの『スミス都へ行く』。

この映画の主人公も、最初は政治の中味よりも、選挙をあくまでビジネス、あるいは一種のゲームとして捉えていたのが、次第に『何か大切なもの』に目覚めていく。

そんなところが、『スミス都へ行く』のコンセプトと似てるなあ…と思いました。

一方で、主人公の言動を見て思わされたのが、『政治におけるイメージ戦略』の恐ろしさ!

恐いなあ…実は、簡単に僕らって洗脳されてるんですよね。

アメリカの選挙は、大統領選挙を見ていても、ケネディの登場をきっかけにイメージの演出におそろしく力を入れますけど、実は、あのヒットラーもイメージ戦略の天才でしたもんね。

実際には宣伝を担当したゲッペルスの力ですが、今のコマーシャルの原型はナチスが生み出したといっても言いぐらい。

言いたいことを単純化して、何度も、繰り返す。(これって小泉首相も同じ手法)

ラジオや映画というメディアを最大限に使って、イメージを浸透させる。

(ちなみに、当時のドイツは、ヒトラーの演説を一人でも多くの人に聞かせたいばかりに、小型ラジオを開発したみたいです。)

映画を政治的に利用するのは、日本も含めて、他の国でも行ってたことですが、兵隊の行進の仕方や旗のデザインなど、『見え方』に異常に気を使ってるのがナチス。

そういや、ちょっと前に出版された本で『人は見た目が9割』というのもありましたよねえ。

まあ、確かにそうなんですが、それがこと政治となると、恐い話になります。

昨日のオリンピック候補地の決め方といい、最近の日本人はホンマに中味よりも、『見栄え』を重視してきてるようで、不安ですわ。

自民党総裁は安倍氏になるのは間違いないんでしょうけど、キレイごとばかりを言うんではなくて、国民に言いにくいこともキッチリ言う首相になって欲しいものです。

小泉劇場は、もう閉館してもらわんと、日本が壊れてしまう…

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2006年8月30日 (水)

マトリクス~虚構と現実~

以前にも、岐阜の殺人事件に関してブログで触れたことがありますが、依然として十代の少年少女の犯罪が目立ちます。

マスコミの取り上げ方にもよるでしょうが、この数日だけでも北海道の十代の少年が自分の母親を友達に依頼して殺した事件や、一昨日の山口周南での女子生徒殺人事件の容疑者も十九歳の少年だとか…

ほんまにどうなってしまったんやろ?

日本はひょっとしたら、心の内戦状態なのかも?

気になるのが、こうした事件の多くが都会ではなくて、郊外や田舎で起こること。

今の時代は、本当に情報過多といってもいいぐらい、テレビやラジオだけでなく、いつどこにいても情報が送られてくる。

しかも、良いものだけでなく悪い情報も。

良い悪いというのは、見た目だけの問題ではなくて、『生きる』ということ自体がスゴク軽く扱われていることが多いのが気がかり。

しかも、『情報』というのは、基本的に『頭』に入ってくるだけなので、それを手にしたからといって、別に本人が何も変わるわけではないのに、あたかもそれが現実であるかのように感じてしまうところが更にタチが悪い。

そもそも、『生きる』ということ自体がとてつもなく大変なことであるはずなのに、当たり前のようにご飯を食べることが出来て、寝る場所もある、友達もいる、病気で死ぬ人も少ない、戦争もない…

これって、本当はスゴク幸せなことであるはずなのに、それを実感出来ない現代人の不幸。

『生きる』って、頭で考えることではなくて、もっと体で感じることであるはずなのに、何かというとネットで情報を入手したり、メールで会話をしたり、テレビから流れてくる情報、それらにリアリティーを感じてしまう僕達。

そして、フト何かの拍子に、現実の世界がそうではないことに気づき、現実のほうを壊してしまおうとしてるのかも?

Photo_42 映画マトリクス

ご存知、超ヒット作の三部作1作目。

1作目は1999年の制作。

監督、脚本はアンディとラリーのウォッシャウスキー兄弟。

出演はキアヌ・リーブス、ローレンス・フィッシュバーン、キャリー=アン・モス他

『マトリクス』というのは、元は『子宮』を意味するラテン語から来ている英語で、そこから派生して母体とか、基盤とか、背景という意味。

この映画を最初に劇場で観たときは、『本当によく出来てる!』というか、娯楽としての面白さはもちろん、その背景にあるのが、スゴク深い!というか哲学的で、よくもまあ、そんな小難しいことを娯楽映画に出来たなあ!って思いました。

今でもその技量には感心しますけど、最近の日本を見ていると、さながら『マトリクス』の世界みたいで恐いです。

そもそも、僕らが現実と思ってるものが、現実なのか?といわれると、考えてみれば確証なんてない。

いや、俺は見た!聞いた!触った!誰かがそばにいた!と言っても、それ自体も『自分の脳がそう思ってる』からだけであって、実はそれ自体も虚構の世界だと言われても、反論出来ない。

マトリクスという映画を観たことの無い人も無いとはいえないので、一応簡単にお話をしておくと…

冒頭は黒ずくめのバイクスーツに身を包んだ女性(トリニティー)が、とある建物に侵入し、破壊工作を試みるところで、これまた黒ずくめのスーツとサングラスの男たちに追われます。逃げるトリニティーは、仲間に誘導されながら、なぜか電話ボックスに逃げ込みます。

え!?と観客が思っていると、遂に黒づくめの男たちが追いつき、彼女が受話器に向かって話しているところへ、銃口を向けて銃を発砲!でも、彼女は受話器に吸い込まれるようにフッと姿を消してしまいます。

一方、主人公のトマス・アンダーソンはニューヨークの会社で働くコンピュータープログラマー。でも彼には裏の顔があって、実はコンピューターハッカー ネオとして凄腕でもありました。

しかし、ある日会社で仕事をしていると、突然、見知らぬ者から警告のメッセージが届き、疑心暗鬼でデスクから逃げ出すと、あの黒づくめの男たちが現れます。

逃げるアンダーソンを捕まえ、尋問を行ってくる謎の男たち。

アンダーソンは、トリニティーたちのおかげで救出されるのですが、モーフィアスという謎の男を紹介され、その男はアンダーソンに、『この世の本当の姿』を教えられるのです…

何度も言いますけど、この映画は、そのアイデアはもちろん、あらゆる面で、よく出来た作品だと思います。

確かに、この映画が出てきたときは、特殊撮影の技術と表現力に誰もが驚かされましたが、そういった娯楽としても楽しめるし、自分の身の回りの出来事をフト考えさせられる面もあって面白い。

でも、最近の事件を見てると、現代社会の危うさを感じて、さながらマトリクスのよう。

十代の少年少女だけでなく、僕達大人も、しっかりと現実を見つめて生きていかないと、甘美な虚構の世界を現実だと思ってしまうと大変なことになってしまうでしょう。

彼らの事件を、単に少年法や少年犯罪、家庭教育という今までの尺度で見てたらエライ勘違いをしてしるのかも?

彼らを救うためには、みんな一人一人がネオのように現実を見つめて、地味でもしっかり生きていくことをせんとあきません。

人生、辛くてシンドイのが当たり前!汚くて、理不尽なことが多いのが現実。

だから”生きる”んです。

だから”生きる”こと自体が”スゴイ”ことなんです。

死んだらあきません。死んだら終わり。ましてや、人を殺すなんてとんでもない!

どうせ、最後はみんな死ぬんですから、何も恐がる必要もないし、それよりも”生きる”ことをもっと頑張らんと!

もっと粘っこく、とにかく”生きる”

”頭”で生きるんではなくて、”心”で生きんと!

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2006年8月27日 (日)

スーパーマン~リターンズはいかに?~

Photo_41 スーパーマン

誰もがご存知のアメリカンコミックスのヒーロー。

でも、今回ご紹介する作品は28年前に、初めて実写化された作品。

1978年の作品で、監督はリチャード・ドナー。オーメンやリーサル・ウエポンの監督として有名です。

そして、音楽はジョン・ウイリアムズだったんですね。知りませんでした。このスーパーマンの制作の前年1977年には、あの『スターウォーズ』の音楽を担当している泣く子も黙る巨匠です。

道理で、この映画の音楽もスターウォーズに似てるなあと思いました。(^0^;

さすがの巨匠も、前年のスターウォーズのイメージから抜け出せなかったんでしょうか?

出演は、クリストファー・リーブの他、マーロン・ブランドがスーパーマンの父親役、ジーン・ハックマンがスーパーマンの敵役で登場します。

さて映画は、惑星クリプトンで三人の反乱者を罰するところから始まります。

その裁判を進行しているスーパーマンの父(ジョー=エル)は、反乱者を罰するものの、惑星クリプトン自体が破滅寸前にあることが気がかりでなりません。

惑星からの脱出を提案するものの、誰からも相手にされず孤立が深まるばかり。そして、遂に自分の子供カル・エル(後のスーパーマン)だけでも助けるために、カプセルに入れて脱出させます。

その時に選んだ星が我が『地球』。

そして、1951年、アメリカの片田舎の草原に落下し、たまたまそこを通りかかった老夫婦に拾われます。

ただ『拾われる』と言っても、隕石のような落ち方をしてきた横をトラックで通りかかったのですが、慌てて車を停めて近寄ってみると、隕石のような中から小さい子供が現れる!!

老夫婦には子供がいなかったこともあり、その子を育てようと決意するのですが、まあ冷静に考えれば、隕石の中から裸で出てきた子供を育てるかあ~と思いますけどネ。しかも、いきなり子供がトラック持ち上げてるから、またまたビックリ!

ホンマ、アメリカ版桃太郎みたいです。

この時にスーパーマンを拾った夫婦の名前が、クラークで、子供にはクラーク・ケントと名づけます。

それから15年が経過し、クラーク・ケントも18歳になるのですが、何せ、普通にしてるだけで、『スーパー』なわけですから、当然、誰からも相手にされず、逆に気味悪がられてしまいます。

ちなみに、この高校生の時に、自分の力を自分に嫌がらせをする友達に見せつけてやりたくて、列車の横を走っていくシーンがあるんですが、その時に偶然、その姿を見かけたのが、後にスーパーマンの恋人となるロイス・レーンという設定。

そして、自分を育ててくれた父親も亡くなり、悲しみに暮れるケントは、物置から不思議な光を放つクリスタルの棒を見つけ、自分が旅立たないといけない運命にあることを知ります。

(このあたりのシーンを見てると、なんか『かぐや姫』みたいなんですよねえ)

年老いた育ての母を置いて、北極(?)に向かうケント。(なんか、このあたりの話の飛び方もコミックならでは…って感じです。)

北極に来たケントは、そこで、持っていたクリスタルの棒を放り投げます。すると、クリスタルの棒に囲まれた要塞のようなものが現れ、生みの父であるジョー=エルが語り始めます。それから、今までの様々なことを子供に伝えるため、地球時間で12年の歳月が経過し、30歳になったクラーク・ケントは、いよいよデイリー・プラネット社に入社し、ロイス・レーンとも出会うことになるのです…

と、ここまで書いてきてもお分かりのように、この作品は、初めてスーパーマンを実写化させたということもあって、アクションよりも、スーパーマンが登場するまでを中心に描いてる感じです。

なので、思ったほどジーン・ハックマンも印象に残らず、アクション映画として期待してしまうと、ちょっと厳しいかも?です。

特に、映画の最後のほうは、正直、『それはアカンやろ!』と思うようなシーンも出てくるのですが、まあそれもご愛嬌ということで。誰もが知ってるスーパーマンの『なあ~るほど』知識を得るには、面白い作品だと思いますよ。

でも、いつもこういうアメリカの映画を観て思うのが、役者さんの頑張り!。

正直、今の僕らから見れば特撮部分はショボイと思うでしょうし、基本のストーリー自体がアメコミで荒唐無稽な部分も多いだけに、下手すると『お子様向け』映画になると思うんですが、それを観れる映画にさせてくれている大きな要因は『役者の演技のリアリティー』のような気がしますねえ。

これは、本当にいつも感心します。こういう映画の登場人物やストーリーであっても、あたかもそんな人物がいるかのように思わせるところがスゴイと思います。

あれって、なかなか出来ないですよ。実際、日本の映画を観てて、失望させられるところがそういうところの違いですねえ。(まあ、単に英語やからそう感じるだけのことかもしれませんが…)

映画の予告編を観るがぎり、現在上映中の『スーパーマン リターンズ』も、この作品のリメイクのようですけど、どうなんでしょうね?

ちなみに、スーパーマン リターンズの監督はブライアン・シンガーで、『X-MEN』シリーズの監督として知られてますが、X-MENでは、リチャード・ドナーが製作総指揮をしているところなんかハリウッドの人脈を感じます。

もう一つ、ちなみに、日本では、この1978年の作品は1979年に上映され、配給収入は28億円で洋画部門1位!に輝いたものの、第2作以降、上映の度に人気は低下していってしまいました。

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